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自分の内面を「形」にする ---投稿雑誌『Inside Out』ブログ since 2007/11/15
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プロフィール
HN:
川端康史
年齢:
33
性別:
男性
誕生日:
1984/06/29
自己紹介:
『Inside Out』代表の川端です。
自分の内面を「形」にする。
こういった理念を持った雑誌である以上、私にも表現する義務があると思っています。
ここはその一つの「形」です。かといって、私だけがここに書き込むわけではありません。スタッフはもちろん作者の方も書き込める、一つの「場」になればと思っています。
初めての方も、気軽にコメントなど頂ければと思います。

mixi:kawattyan and Inside Outコミュニティー
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「迷迭香の夜」後編

【断章3】

そこに満ちていたのは、寂しい旋律。さめざめとしてか細い女の涙。
ぽつりぽつりと降ってくる透き通った雨の雫のように、悲しい音色の粒がはじける。それはさながら真暗の宇宙空間で、調律された星々の瞬きによって虚無から 神秘の素粒子が創り出される瞬間のごとく、宵闇の世界を彩り、そうでありながらも全ての存在を悲哀で埋めつくし、闇色に心を塗り潰すような音だった。胸を 突き刺され寂寥がこみ上げる音、この世の悲しみを全て凝縮したピアニシモ。

音は、すすり泣きだった。僅かな空気の震えが等しく訪れる消滅を暗示し、存在の不確定をほのめかしていた。
有機物から無機物にいたる全ての構成物と、それらが織りなす森羅万象に抱かれるように、空間が揺らいでいた。そのとき再び窓から月光が射し込み、ほんの一 時の幻のように闇が和らいだ。空間に淡い月彩色が交じり、春霞が呼び覚ます朗らかな狂気のようにゆらぎの中心に触れる。混沌の海のは未夜子という少女だっ た。澄んだ泪に潤う声は、その無秩序にあってなお秩序の調べを奏でているよう。

うっすらと見える白い肌、ほっそりとした腕と足、くびれた腰。その少女の裸体は一瞬で崩れ去る幻のように美しい、いや滅びるから美しいのか。未夜子の隣にいる男、京はそのようなことを想いながら彼女に問う。
「なぜ泣くんだ」
低く尋ね首筋に指で触れると、未夜子は顔を背けた。その唇には粘度の高いものが付着している。幹の暴走の痕だった。
答えは、還らない。
「突然どうしたんだよ」
京は答えを待ち続ける、そのうちに向こうから謝るだろう、すがるだろうと考えて。だが、その時はいつまでたってもやってこなかった。終焉を迎えた宇宙のように、死者の眠りさながらに。
冷たさすらない空虚な時が過ぎてゆく。
待っている男には永遠にこの時間が続いていくように思われ、鈍い刃物でつつかれた時に出る飛沫が心の中で散るようだった。
「何も……」
はじめて未夜子が声を漏らす。耳を澄ましてようやく聞こえるか聞こえないか程の声で。
「何も気に入らなくないよ……。だから、でも」
何か言葉に収まらない夜陰の底に潜む魔物が薄笑いを浮かべてちらつく幻視を、近いはずの距離にいつのまにか密度濃く漂う孤独を、京は意識の奥底ではじめて感じ取った。
「わからないよ、でも、……なにか違う。さっき京が服を着て帰ろうとした時、私を言葉で嬲った時、私をみつめたとき、そして……果てたとき。何か、感じたの。……知ったの、なにか壊れたの。……本当は前から少しづつ感じてたの」
話し声はあくまでも囁くように小さく幽かで、そして独白のようだった。悲しそうでもあるのに、その一方で淡々とし色のある感情がみえない。
顔を背けたまま、彼女は話す。
「はじめから違ったのか、歯車がずれたのかわかんない。わたしの何かがもう戻れないくらいずれちゃったのか、京がそうなのかも……うまく、言えない。でも、気が付いてしまったの」
京は何を言うべきか戸惑い、出口のない迷路を彷徨うような焦燥に支配されつつあった。いままでそんなことは言われたことがなかった、いつも従ってきたし、いつも理解の範疇に彼女はいたのに。何かが違う、何かが狂ってきている。
ふいに未夜子が、京を振り返る。
その時、京は確かに視た。
未夜子は、少し困った顔で微笑んでいた。意識してみなければ気づかないような小さな笑み、それがつくられたものなのか自然のものなのかは決して解らない、どこか空寂しく、に染まる逢魔が刻の道に影をのばし、ひとりぽつんと立ちつくしている子供のようだった。
今にも消え入りそうな存在感、いまにも滅びゆく者が魅せる美しさ。昔どこかで彼女の見て同じ貌をみたことがある、と刹那に京は追憶する。だが、それがいつのことだったのかすぐ思い出せなかった。
「なんか……京は、タリナイみたい。ごめんね……」
「滅び」京がその言葉を想った時、精神をわしづかみにされたような鈍重な苦しみで揺るがされる。自分はいまどこにいるのだろうか、目の前に映る致命的な綻 びの一糸が少しづつ迫るように大きくなっている。なすすべもなく、全てが無くなる。その前に、自分など本当ははじめから存在していなかったのではないだろ うか。

―――ふいに、京の記憶が蘇る。
『当たり前だけど永遠なんて無い。ただ、何かの齟齬で一瞬感じるだけさ』

言葉を放ったのは他ならぬ彼自身だ。瞼の奥にまで染みこむ緋色の夕影が射し込む
図書館だった。なぜ黄昏時の図書館にいたのかは解らない。言葉と情景だけが鮮明な
写影として脳髄に焼き付いていて、フラッシュバックする。

本当に永遠なるものはないのだろうか、と京は考えたことがあった。
全てをなげうって得た愛も、完全な循環を持つ回路も、やがては疲弊し自壊をはじめなければならないのだろうか。やがて壊れて、死んで、土になり砂になり、 ほんの僅かな残滓を残して消えていくのだろうか。確かに見ている情念も、確かに感じている熱も、愛情も憎しみも歓びも悲しみも、全ては時の前においては等 しく砂の前身に過ぎないのだろうか。

『そんなことないとおもうな、京くん。きっとなにか、……在るとおもうよ』
未夜子だった。彼女は寂寞と、困惑と、優しさがうっすらと透き通るヴェールで織りかさなったその笑顔で京に答えた。
もしかしたら答えてなどいない、ただ京がそう受け止めただけかも知れない。その日の赤光があまりにも、それこそ眼球が沁みて気を違えるほど鮮やかな深紅で、隙間から心までヴァーミリオンに染め抜かれてしまいそんな誤解をしたのかも知れない、といま京は想う。

『一人になろうとしなくていいんだよ、閉じなくても大丈夫。全ては変わっていくけど、巡り巡ってきっと繰り返すの……』
あたりに漂浮する古本の薫りが、穏やかな安らぎを与える。

『抽象論には意味がない、つまり事実に基づく真理が知りたいんだ……なぁんて、考えてるでしょ?』
未夜子が無垢な笑みを魅せる。

『そんな顔してるもの。でもね、わたしは思うんだ。世界中で有名な絵画とかって、ずっと昔の絵なのにまだ人を惹きつけてるでしょ?実は最後の晩餐っていう 絵をみたことがあるの、すごく大きいやつ。言葉にはできないくらい心を掴まれて目が離せなかったなぁ。だから、考えたんだ、これをかいた人はどんな気持ち でこの絵を描いたんだろう、何年もかけてどうして作業を続けられたんだろう、すごいよね、この人は何を夢みていたんだろう、きっと、とっても強い気持ちが 在ったんだろうなぁ。
……わたしは、だから何百年も色あせないんだ、ただの綺麗な絵じゃできない、ずっと人々にイメージをくれるんだって思った。言葉にすると陳腐だけど、ああ、この絵は人がいる限り永遠なんだ、そして絵を通して込めた想いもきっと……。そう思って、なんだか涙がこぼれたの』
京は遣る瀬ない面持ちで横を向く、だとしてもそんな強い想いなんて僕にはないんだ。何もないんだ、僕には。

『……わたしにはあるよ。だからね、アナタにもあげる』
空火照りがいっそう輝きを増し、猟奇的な紅に全世界を彩色する。

『アナタがアナタでいる限り、私が永遠をあげる』


刹那の追憶が途切れる。
意識を眼前に戻すと、やはりそこを覆うのは黒だった。
記憶の中の古本の匂いも心地よい静けさも切ない朱色も、何もない。ぽっかりと闇が穴を空けてまちかまえるようにあるだけだ。
京はぴくりと人差し指の筋を動かした。その動きを彼は意識しなかったが、動作に気づいてからはまだ自分の手が自分で動かせることを意外に感じた。
彼はそっとたちあがる。床がきしんだ。空間にほんの少しの物音という染みを付けることが奇妙にためらわれた。それでも意を決し、ゆらりと未夜子に寄る、彼女は足を抱えてうずくまっていた。
近づいてどうするというのか、彼は考えてなどいない、ただ何かしなければと思って肩に手をかけるが、彼女は下を向いて表情を見せようとしない。
「……未夜子」
小声で呼びかけるが返事はなかった。
そうした無言は数十秒か、あるいは数分かつづく、京にはもはや時間の感覚は無く、ただひたすら永い時間を締め付けられ、呼吸を押さえ込まれているように感じていた。
それでもまだ、彼は心の中で無人の方角に向かって叫ぼうとする。俺は縛られていない、捕らわれてなどいない、止めることはあってもとらわれていたわけじゃ ない、そうして俺は未夜子とふれあってきた、未夜子の何かをえぐっても、そのえぐられたものを未夜子は俺に求めてきたんだ、そして俺は与えることができ た、だからそのままでいられた……
遠くの叫びは、見てはならぬ根深き存在に最後の抵抗を試み、そして砕け散るようでもあった。
「ごめんね、タリナイんだ。もう、さわられても……」
全てを言い終える前に、京は未夜子の細い肩を掴んで体を捻らせ仰向けに押し倒した。

京の頭の中でおぞましい程の蝉が鳴き喚いていた。ぐらりと地が揺れ平衡感覚を無くす。脳が震盪し、自分がさっきまでどこにたっていたのか見失う。
視界が暗くなる。周囲のものが消失する。世界が反転する。絶目の色彩が黒白にのまれる。茜も、遠くへ行った。
目印のないモノクロームの視界で立っている事ができなくなったように、京は未夜子の上に倒れ込みのしかかる。そして肩を地に押さえつける。しかし、全てを理解しているかのように彼女は落ち着き払っていた。それ以上に気怠そうだった。
あさっての方向を少し眺めてから、いかにも面倒ごとのように貌を動かさず目だけ京に向ける。彼も未夜子の目を見据える。琥珀の瞳のさらに奥、中心に在るの は朔月の晩に現れる湖底のように朦朧とした墨色の黒点。どこをみるでもなく、ただ全てを映している。意志の光は宿らない、深く、より深く、奈落の穴のよう に虚無が全てをのみ込むような。覗き込めば吸い込まれるそれを、京はそれでも覗き込んだ。黙して語らぬ双眸を、彼はなお美しいと感じた。瞳がシニカルな鏡 のように、京のみを反射し映している。
「離して……」
京は沈黙する。
彼女を見つめれば見つめるほど、見たくもない哀れな己の姿を直視し無ければならず、それでも彼は彼女を見つめるしかなかった。
掴まえて、それでどうするのか、考えてなどいない。ただ弾かれたように体が動いただけだった。衝動が京をつきうごかしたにすぎない。それでも離して、とい われれば京は何か行い、何か言わなければならなかった。どうしよう、どうすればいいんだ、どうでもいい、どれも正しい、どれも誤りだ、どれが必要なんだ、 どこへいけばいいんだ……真摯に、同時に他人事のように現実感を失いあらゆる思考が瞬時に渦巻く。
―――ふと、彼の精神の幽遠で閃くものがあった。……直観。始まりにして終わりなる最も確かで根元的な感覚だった。
それは、囁く。
「やめてよ……」
細い肩を掴む京の手が、いつの間にか、さらに細い少女のその首にかかっていた。
彼は囁きに従う。太腿部を両膝で抑えて体重を乗せる。さながら彼女を地に磔にするように。柔らかく薄い素肌が破れる強さで、男の指は食い込む。京の呼吸は 荒がっていた。思考の芸術品を床にたたきつけ壊す直前のような感覚、その罪悪感と背徳感をなんと呼べばいいのか解らない。ただ、未夜子が抵抗し力を込める のを抑えつけるたびに、その未知なる感覚は不明瞭に沸き上がり京の口元を吊り上がらせる。
脳裏に、ふっと言葉がよぎった。それは悦びという一文字だった。
「苦しい……やっ……」
未夜子が苦痛に顔を歪ませるたび、京は不可思議な安心を覚えた。
彼のうっすらとした笑みに安堵と安らぎがまじり、他方で息は荒くなってゆく。指の力はより強くなり、未夜子の顔が紅潮し首筋の脈が不整にうつ。指先でそれを感じた彼は、「人は思っていた以上に脆い」という事を理解したような気がした。
そして、そのことを思った時、京はふいに自分が何か重大なことを忘れているのではないか、決して忘れてはならない基本的なことを見逃しているのではないか、という気がしてきた。ぽろりとこぼれたピースが、最も大切なピースだったのではないか。
未夜子が最後の力を使い切るように渾身の握力で京の手首を握る。その部分に赤い痕ができ、不意をつかれた京は一瞬だけ手を離してしまう。それは流星の瞬きのように短い間だったが、未夜子はやっと掠れた声で囁き、言の葉を舞わす。
「しなきゃいけないことも、一人でできないの?」
忘却していた大切なことが何だったのか京はそこで思い出した。
未夜子はもはや苦しむ表情も呻く吐息も見せようとはしない。来るべきもの、受け入れるべきものを、抵抗無く受け入れることこそが抵抗の証であるように、朔月の晩の濁った湖底の瞳、無表情な視線で京を射抜く。
だが、彼はその深いものにのみ込まれることを躊躇せず、むしろそれが在るべき調和のように感じていた。
京の深奥の囁きが教え、動かす。
「遅くなってすまない」
彼の衝動はもう既に強く脈打ち、尋常でない硬度を得ていた。
金剛杖をたたき付けるように、少女の柔らかい秘孔を穿つ。
絶対的な蹂躙そのものであるその行為に、しかし未夜子のそこはすんなりと受け入れた。それでも彼女は何の声も漏らさない。それが京をさらに動かしていく。 触れられるはずの大切な記憶にもう少しで触れられずにいるようで、ぬくもりと優しさを求めて足掻くように彼女をかき回した。
未夜子が、貌に表情を創ってそれに答える。それは笑顔だった。ただの笑顔ではない。さげすみと哀れみが混じっていた。少なくとも京の感性がそう捉えた。元来、未夜子は人を哀れみ蔑む者ではない、京が一番よく知っている。故に、彼女が哀れむのは京という男ただ一人だった。
哀れみはある種の慈悲として悲痛に暴れる京の剣のやわらかな鞘となる、それは確かにぬくもりであり、凍て付く未夜子の表情とは対極的な愛情で包み込む。京 自身を挑発するように絡みつき、吸い付き、時折愛でるように締め付ける。生暖かい液体が溢れだして京の樹液と混じり合い、それらが織りなす深い快楽に京は 気を失いそうになる。
あたかも己の一部が桃源郷の中に籠絡されるようだった。
腰と腰をうちすえ肌と肌がぶつかり合う音が空気を隅々まで穢すように鳴り響く。

唐突に少女が涙の雫を流した。
それがなんなのか京には解らない。痛みや苦しみといえばそれも偽とはならないだろう、京の指は彼女の白い首をいまだに締め付けている。
だが、彼はその雫に苦しみの匂いを感じ取らなかった。柔肌に滴る水滴の跡は透明にすきとおる金剛石の残滓のように美しかったからだ。
そして未夜子自身にも解らないだろうと京は想った。その理由のわからない輝きは未夜子という少女の綻びの偶発的な現れにすぎないんだ、と。
あってはならぬ綻び、綻びが紡ぎ出す小さな、しかし絶望的な違和、世界の断面がずれて繋がらなくなるような違和、その違和が産み出す違和故の調和。全てが 一つのものに融けあう。広大な宇宙へと魂を投げ出されるような錯覚が京を襲う。時間も場所もわからない。ただどこかへ流れていこうとしていることだけが知 覚できる。彼は非現実が渦巻く感覚の世界で思索する。
完全だからこそ生じたそのほつれ正すべく糸を手繰れば、それはまさに綻びを紡ぐことだ、この残酷な悦びを苦悩しながら俺は未夜子に与えよう、鋭敏になりすぎたカラダで全てが解らなくなる前に。

下腹部のさらに下への刺突が京の迷い込んだ迷路の中の唯一の道標だった。未夜子の核を確かめるかのように、精神が壊れそうになるほど力を込めて激しくそれ を突き立てる。少女はそれをなおいっそう貪欲に取り込んでいく。それは無言の行為だったが、京には声が聞こえた気がした。
確かな感覚が欲しい、もっと確かな感覚が、わたしがいたという確かな感覚が、切実な痛みが、そうじゃないと、わたしはどこかに消えて砂みたいに崩れていきそうなの……
非常なる悦楽が京の存在の芯からとめどなく溢れ出す。もはやそれはある種の原初的な恐怖ですらある程だった。そしてそれを産み出す未夜子自身にも畏れを抱 いた。全てを受け入れることで何者をも拒絶し傷つける。どれほど力を込め苦しめようと、それを嘲笑うかのように蜜を溢れさせ悦ぶ。暴力のように一方的で京 の意志に従わず、光届かぬ深海の魚のように無機質な視線で京を貫く。
彼は焦り、この世の全ての原子が崩壊し自分だけが絶対的な孤独の中で取り残されたような感覚に囚われる。未夜子のたゆたう感覚の海が秩序にあればあるほど、京のたゆたうそれは無秩序でカオスが渦めく崩れゆく世界だった。
京は足掻き、悶え、空いた黒い孔を埋めようとますます力を入れて穿つ。例え器が壊れようとかまわない、と内面で叫びながら。
『俺は自由だ、何者にも縛られないはずだ、愛すべきものを壊すことだってできる……!』
魂自体を叩きつけるように彼は突き上げる。否、本当にその通りだったのかも知れない。京の意識は朦朧となり視界から光が消滅していく。現実感は限りなく希 薄で、不気味に鮮やかな未夜子の端正な顔が夢幻のように静かに押し寄せてくる。去来する黒い霧を突き破ろうと蠢動はいっそうの激しさを増す、そこから得る 暖かみだけが僅かに残された真理のように。
彼はとうに限界を超えていた。精神にあらゆる相反する条理が津波のように襲い来る、それは満ち足りた憎悪の歓びであり溢れ出る愛情の悲しみであり、そして冷徹な火傷が、かろうじてその限界越境を頼りなく押し止めているだけだった。
力の志向がわからず、足掻きたい、崩れゆく「現在」からひたすら足掻きたいという意志が京の意識をなんとか繋ぎ止めるのみだった。そんな足掻きが未夜子の 秩序の構成要素にしかならないとしても、自分が自分であるために自分が渾身で死力を尽くすしかない事を悟るようにさらなる奥を求めゆくのだった。

……やがて、狂虐な調和は訪れた。
巨大な波が地平の無限遠から一瞬にして押し寄せ、京の全てを押し流す。奔流に存在そのものが飲み込まれていく。
濁流が、頂点に登りつめる。

―――瞬間、京は光をみた。
不思議な刻だった。
刹那が永遠だった。瞬間が永久だった。自らが全ての中にあるように彼は感じた。
真黒だった目の前が唐突にホワイトアウトしていく。最果てにある純白の世界で、原初の揺りかごにゆられているような安らぎがあった。
透徹された無重力空間を漂うように京は想う。全ての端緒はここにあり、それが少し形を変えているだけ。自分も未夜子も同じものだ、変わってなどいない……

『京になら、いいよ』

未夜子の声が聞こえた。はんなりと優しい声だった。蒼い月が夜を淡く照らすような……昏い海底にまで陽光が透過し時を与えるような……

姿は見えない。声だけが透き通って届いた。
『いつか一緒にフィレンツェにいこう。エスプレッソは……宵の味がするよ』

虚空の月が欠け、蝕が世界を闇で包みこんだ。どこかで誰かが言う。
『壊さないために、壊せ』

京の意識は、そこで途切れていく。
彼方で、囁きが聞こえる――――


【終章】

羽虫のような音が満ちている。
『ウウウウウゥゥ・・・ン』
黒い、小さい羽虫の集合の音だ。僕の頭の中入り込み、脳内をぐちゃぐちゃにあらして去っていく黒い羽虫の振動。感覚が身体から遊離し、おぞましいほど耳障りな空間で宙吊りにされ、動かない身体をひっしに動かそうともがき続けるしかない。
為す術もなかった。

「ほら、おきなさい」
ほら、おきなさい、なんて言われたのは何年ぶりだろうか。大学に入って一人暮らしをはじめる前、親にそんなふうによくおこされていた。
僕はどこにいるのだろうか。今まで長い夢でも見ていたのだろうか。ふと気づけば、もとも日常の中に戻っているのだろうか。
「いいかげんにしなさい」
ぴしゃりと顔に水をかけられる。いや、水じゃない。少しとろみのある肌触りに、アルコールとブラックベリーの香りがした。ワインだろうか。紫色の洋酒は味 わうには深みがあり、けれど目覚めには刺激的にすぎるアルコールだった。はっとして目を開くと、眼前には村尾がいた。ワインを片手に眼を細めてこちらを 伺っている。 
「だらしないのねぇ」
クスクスと笑う村尾に、僕はぞっとするものを感じた。
「たかだか八時間の責め苦じゃないの」
「僕は・・・」
記憶が、徐々に蘇ってくる。気を失う前の出来事。それは蘇ってきていてもなお、夢うつつのようだ。いや、夢だったんじゃないか。
……なんて考えれば楽にはなるだろうか。否、たぶんそれでも変わらない、これから先僕が楽になれる場所はない、たとえ目の前の出来事が現実であろうと夢で あろうと何が違うというわけじゃない、全てをやめてどこかの静かな場所で静かに花を植えていようと、同じ事なんだ。雨はまたいつか降り注ぎ、夜はいずれ訪 れる、どこにいようとそれはおってきて僕を歩かせ続ける、森へ、海へ、ゴルゴダの丘へ。

「娘を殺したのはあなたね」 
村尾が言ったことは正しい。だから僕には罪があり、罰がある。
彼女に出されたあのワインには、何か薬が混ぜてあった。それで僕は抵抗を奪われ、みずみずしくそれでいて熟れた女に8時間嬲られ続けた。羽虫の音、細やか な振動音、その正体は何のことはない、このミラノの郊外のいかがわしい店に安くうっているだろう球状のバイブだ。これを4つほど陰茎に結びつけ延々と稼働 しているだけだ。
僕が絶頂に達しないよう、弱い振動で延々と。
いや、振動を弱めに設定してある理由はそれだけじゃないだろう。8時間。それは、バイブで細胞を壊死させるのに無理のない時間だ。同じ場所ばかりにバイブ を触れさせていると、細胞の壊死が痛みとして確かに理解できる。電気マッサージ器などでも、よく五分以上同じ場所に当てないよう注意書きが書かれている が、同じ理由だ。僕はそうした壊死を避けるためにバイブの場所を動かさねばならなかったが、しかし四肢はベッドの格子にレザーベルトで拘束されて動かせな い、だから無様に村尾に懇願して場所をずらしてもらう。これを基本として、8時間、他にも僕の体と精神を追いやる案をさまざまに展開していた。そして僕は 気を失った。

「どうしてわかったんだ、あんたは……誰だ」
股間をくにくにと素足で踏みつけられながら、拘束されてから1時間ほどたった頃に僕はきいた。
「あんたは……誰だ……ですって」
クスクス笑いながら真似をされる。
「足蹴にされて勃起させながら、格好付けないでくださる?……まぁいいです、教えましょう。私は、あなたの女だったあの娘の母親よ」
……なんとなく、わかってはいた。
「でも、名字が違う」
「別に珍しくもないわ。離婚したのよ、あの子は父の姓を名乗っているだけ」
「……なんであんたは僕のことを知っているんだ」
彼女は面倒くさそうにそっぽむいた。
「やだ、少しは自分で考えてよ」
「……考えられる状況じゃないだろ僕は。体に回る薬を抜いて拘束をといてくれ」
ふいに眼前に脚を差し出される。白い太腿の先の生足が、僕の目の前にある。
「舐めたら教えてあげますよ」
「……」
どのみち僕に選択権はないのだろう、十秒ほどだまって足をみつめてから、おそるおそる舌を伸ばした。
蒸れた匂いの中で、足は足の味がした。 
「ふふ、よくできました」
異質ななまめかしさで意地悪そうに、満足そうに眼を細めると、こちらに背を向けてベッドの隅に手をついて座った。
「たまにあって食事はしていたのよ。私は娘が好きで、娘はたぶん私が好きだった。プライベートな話も聞いていたし、喜びも不安もだいたい理解していたつも り。二年くらい前からかしら……。あなたのことが話に登場してきたのよ。その話をする時、あの子は紛れもなく喜んでいたの、百花繚乱咲き乱れるくらいに嬉 しそうだった……」
「僕は……」
「お黙りなさい。あなたの意見は聞いていないわ」
妙に毅然とした態度で、幼少の頃にまじめに叱ってくる何人かの大人を思い出した。
「嬉しそうだった彼女に、だんだんと翳りが見えてきたのは数ヶ月前のことです。あの子はうつむいて黙ったり、それを私に心配されると微笑みながらなんでも ない、大丈夫、ただ、なにか違和感があって、なにかがちょっと変わってきているだけ、そんなふうに言ってたのね。ええ、普通の場合なら気にもとめないで しょうね。でも、私はすごく気になった。ねぇ、あなた、私が夫と離婚した理由をわかるかしら」
わかるわけがない。
「とてもくだらない事よ。夫が玄関先の花瓶を落として割ったの。たった、それだけ。それだけなのよ。なのに、私はそれがずっと気になって、いまもあの花瓶 が割れる音をはっきりとおぼえているんです、どうしようもなく嫌な音、今まで培ってきたものをすべて壊すような空気の振動……ちょっとしたずれが全てを終 わらせる致命的な綻びだったの。夫を嫌になりたくないのに、嫌になって仕方なかった。息子が死産した時も、私たち夫婦は別れなかったのに。……私は異常か しら、そんなこと絶対に普通の人は感じないでしょうね」
僕には黙っているしかない。
「あの子も、そういうことだったのかも知れない。もちろん、どこに違和感を感じたのかはわかりません。私はあの子ではないから。でも、確かなことは、あの 子の中で何か変化があったこと、何かの終わりを悟ったのか、変えねばならない何かをかぎとったのか……。娘は、あるとき私に言いました。『私はいつまで私 でいられるんだろう』。どういう意味でしょうね。聞いてもあの子は困った風に笑っているからそれ以上聞けなくて、そのときはちっとも分からなかった。で も、とにかく不安になって定期的に電話したりメールして様子を聞くことにしました。そうして、ある時間を境に連絡は途絶えたの」
村尾はどんな顔をしているのだろうか。僕には、それを見ることができない。
「数日後に、娘の部屋に行ってみると、そこにはもう誰もいなかった。私は青ざめて部屋中を探して手がかりを見つけようとした。すると、机の中で手紙を見つ けたの。それにはね、こんなふうにかいてあったの。『お母さん いままでありがとう 後のことをおねがいします わがままを言ってごめんなさい』。私は、 自分でも不思議なくらい静かに読み終えると、あとは堰を切ったように涙が止まらなかった。知ってはならないことを感じてしまったんです」
村尾が虚ろな目でクスクスと笑う。
「不思議なのよ。妙な音がするの。本当に、不思議な音。気持ちが悪いぐらいに。不気味なの。ばりん、っておとが。頭の中で。何かが砕けて壊れたような音がしたのよ。……ねぇ」
一呼吸おくと、母親は僕に小さく尋ねた。そのときの一言が、耳に焼き付いている。
極寒の霧氷よりなお薄く冷たい棘が、僕を凍てつかせるように。

「……私の娘をどこにやったか、知りませんか?」

「……それは」
しかし、村尾は僕の言葉を遮る。あなたの話は聞きたくないといって。
「どのみち私の届かないところに変わりないものね。あらゆる意味で、そうなんでしょう?……いいのよ、答えなくて。喋らないでいいわ。悲しまなくてもいいの。笑わなくてもいいわ、泣かなくてもいいわ」
「僕は……」
言葉が続かない。 
「……詠わないで!踊らないで!叫ばないで!」
彼女が泣いているのかどうかすらも見えなかった。
「……知っているから。あなたがイタリアにきたと思しき日の前日、娘が遺体で発見されたと連絡を受けたんですもの。もう全て終わったあと」
「……何も終わってません」
迷子のように弱弱しく口にすると、彼女は少し沈黙してから言った。
「なら……なら、残された私はどうすればいいんでしょうか」
村尾は振り向いた。穏やかな笑顔だった。その瞳の奥で、青い炎がとゆらめいていた。
「残された私は、あなたを探そうと思いました。手紙には追伸があったんです。一枚の写真と一緒にね。写真にはあなたがうつっていたわ。追伸にはこう、『写 真の人がもしフィレンツェのカフェを回っていて、もし偶然みつけることがあったら、後はお願いするね。そしてもし不思議なことを言ったら、よくしてあげ て』。……私はその手紙をよんだあと、フィレンツェの有名カフェ何店かを毎日あるき回って写真のあなたを探し出した。すると、あなたは案外すぐに見つかっ た。なんていうか、わかりやすいわよね、有名どころからまわってくれるんだから。それで、手紙通りあなたは不思議なことをいった。そうね、いろいろあなた は変わったことをいったけど、たとえばフィレンツェのエスプレッソは宵の味がする、とか不思議な言葉じゃなくて?」
頭が軋み、目眩運がして、意識が混濁しかける。縛られた腕が痛む。
「……それで僕をどうするんだ」
「手紙に従えば、あなたに良くしてあげなきゃね?」
「なにを……」
村尾は興ざめした顔でつまらなそうに、床をとんとんとつま先でつつく。
「娘はあなたを罰するために私にメッセージを残したのかしら。それとも、助けるためなのかしら。あるいは、もっと別の事かしら……?難しいわねぇ。だから、母は一緒に同行して、あなたがどんな人かチェックしちゃおうとおもったのでした」
僕は乾いた笑いを上げる。
「ハハ、とんだ抜き打ちテストですね。それで、結果はどうでしたか?」
村尾が、細く長い人差し指で僕の唇にそっと触れる。 
「……ええ、とても素直な子だとおもったわ。とても、ね。本当は……なんでも言うことを聞いてくれそうですもの。……ねぇ、もう日本に帰る気はないんで しょう?仕事もやめて、祖国も捨てて旅行者ビザで単身やってくるなんて、異常ね。異常だわ。あなた、なんなの?でも仕方ないのかしら。異常は愛情の別の顔 ですものね。宵の味、っていう意味のない言葉の理解があの子の理解に繋がると信じて、全てをなげうってしまうんですもの」
「……僕は異常なんかじゃない。その言葉にだって意味はある!僕は……あんたになにがわかるんだ!」
限られた体の力で少しでも強く怒声を上げるが、村尾は目をそむけず僕を見据える。
「わからないわ。私には解らないことばかり。『宵の味』も、もしかしたら何の意味もない、ただ娘があなたを苦しめるためにわざと意味のないことを言って永 遠に迷わせようとしたのかも知れないし、もしかしたらあなた達にしか分からないことなのかもしれない。もしかしたら、娘は本当に何かを伝えたかったのかも 知れない。でも、それは私にはどうでもいいんです。それはあなたが解決すべき事で、悩み続ける事よ。『宵の味』の意味を教えてあげるって言ったよね、私に とってはそれが答えなの。私はあなたが苦しみを放棄しなければ何だっていいの。私がやるべき事は一つよ、あなたに『あとはお願いするね』を守ること……お 願いされたからには、私はあなたに優しくしますわ」
どこがやさしい待遇なんだ、と僕は村尾をにらみ付けるが彼女は涼しい顔でやりすごし、肩をすくめる。
「あなたね……分かってないようだけど」
それは、地獄の底、コキュートスの冷徹な空気が深い闇からにじみ出るような声だった。
「いまここで殺されたって文句はいえないんですよ」
彼女は、彼女に似た笑顔で愛らしく微笑んだ。
壊れた笑顔が、戦慄するほど美しかった。



――――一年がたっていた。僕は殺されなかった。 

でも、いつ殺されてもおかしくない。言葉は僕の耳に、精神に、まるで決して剥がせない刻印のように焼きついている。

それでも、みかけには僕の生活はたおやかだった。
朝はまず祈りを捧げ、それから数時間小説を書き、家事をする。そして夜は、嬲られ責められる。僕はそれを納得し、喜んで受け入れる。小さな部屋で、僕の世界は完結している。心地の良い永遠だ。海の遙か向こうからさざなみが押し寄せ、終わりのない安らかな音を届けるように。
仰向けに寝そべる僕の腹筋の上で、村尾美代子が豊かな尻を付いてすわり、悠然と見下ろしている。今日はどんなことをして欲しいの?そうきく彼女は、僕の答 えを分かっている。僕は、ためらいがちに入れて欲しい、と呟く。そして目を伏せる。彼女は、彼女が見せなかった残酷な眼で僕に笑いかけ、そして嘲る。僕が 見たこともない一連の動作は、それでもどこか彼女に似ていて、陳腐な悲しみは高潔な快楽にとけゆき、そのすべてはあくまでも愉快な自虐として表現される。 その自虐の深淵が二人の世界にひっそりとした幸福を捧げるのだ。
侵入してくる女の長く細い指はなまめかしく、秘穴を犯される僕がどこからか声を震わせる。
つまりはそんな日常だ。
村尾は……美代子はいった。娘がなろうとしていたもの、なりたかったもの、したかったこと、その続きを僕に行うと。そして彼女が愛したものを自分も、自分 のやり方で愛するのだと。僕はそれを認め、受け入れた。祖国に帰って司法当局に拘束されるわけにも、まして殺されるわけにもいかない、なぜなら僕は創作を 行わなければならないから。
僕には罪があり罰がある、故に彼女がなろうとしていたものを考え続け、彼女を壊したものを推理し、彼女が壊したものを思索し、気が狂うまでに罪の意識を反 芻し、永遠の懲役をうけなければならない。在るはずだったなにかを創作の中で具現化し、壊れた世界を復元しなければならない。創作の業など持たない僕は賽 の河原で石を積んでは崩し積んでは崩す、完成された永久の芸術として己が納得いくまで、僕は創作を続ける。
それが、彼女に捧げる墓碑銘だ。
その過程でうまれていく苦悩の音が彼女に捧げる鎮魂歌なのだ。
村尾美代子にこのことを長く説明したことはない。
しかし、彼女はそのための時間をとることを許す。むしろ、何もしないということでその手助けをしてくれる。
一作書き上げた日は僕を嬲るのを止め、しんと降り積もる白い粉雪のように作品を読む。その日だけは僕も美代子の細い肩を抱いて、暗い洞穴にたたえられた透過する水みたいに二人で眠る。

仕事は美代子によって行われ、僕は外にも出ず、ただひたすら日常を繰り返す。だから変化もなく完全な循環で世界は揺らぐことなく存在している。
しかし、と思う。これがこのさきもずっと終わることなく続いているだろうか、もちろん美代子が死去すればまた変わるだろう、でもそういうことではなく、こ の完成された状態がある瞬間なんの因果もなく不安定に崩れ出すのではないだろうか、ほんの些細なことが致命的な綻びとして暗黒のひびを拡げてしまうのでは ないか。
物理学の書籍でみたことがある。すべての素粒子は突如として生まれ、突如として消えるらしい。あらゆる素粒子を産み出す空間、すなわち世界は全物質の素と なる完全な原初のエネルギーで満たされていて、そして完全なものから生まれた素粒子は、雑多に混じる分子や原子と異なり、また原初の力の海へと還ることが できる。
いま僕らという存在は、そうした素粒子と同じようなものにすぎないのかもしれない。
だとしても、かまわないと思う。たとえ僕が美代子を壊し、あるいはその逆、彼女が辿ったように僕が壊されるとしても、彼女が視たものを僕も視ることができるというのなら。本の小さな崩壊の穴、瓦解の綻びを見つめて崩壊していくことを僕は誇りに思おう。

今日も夜が更けていく。行為を終えた僕と美代子は一つのベッドに入っている。
ミラノの街は東京とちがって、きちんと、そう、死んだように眠る。
静けさがつもるなか、僕はそっとベッドを出る。美代子の寝息は優しく、ほんの少しだけ切なそうな寝顔をそっと指で一撫でした。そしてリビングへ行くと、ポットにのこっていた湯を使ってフィレンツェで買っておいた『ILLY』エスプレッソをコーヒーメーカーに落とす。
コーヒーが落ちる間、僕は窓の外を眺める。
ある距離を境に、景色は無明に隠されてしまい、そこに何があるのか知ることはできなかった。

「……君はなぜ死んだ」
返事はない。そこには誰もいない。
「いつ、僕の部屋から消えた?」
そこには何もない。
「どこでモルヒネを手に入れた?どうして大量のそれを使った? 
――――なぜ、自分自身を殺めた」
後日、村尾美代子は僕に教えた。あの子が終わった原因は、自らの手で注入した致死量のモルヒネだったと。僕は直接の死因にならなかった。
あの日、目を覚ましたときには、もう彼女は消えていた。連絡はつかなかった。   
否、僕は連絡をしなかった。連絡をしようという発想すら出てこなかった。いや、自分の意識すら曖昧でただ空虚だった。
ただ、イタリアへ行かねばという確信だけがあった。それだけが道だというように。憑りつかれたように、ひたすら最低限の準備をし、この国へきた。それこそ、憑りつかれていたのかもしれない。
……今も。

イタリアに来て三日ほどたった後、やっと自分がサンダルで着ていることに気づいた。その間の記憶は霞の中に閉じ込められたように定かでない。むしろ記憶などはじめから無いようだった。
僕が日本でしたこと、それも僕がそう思い込んでいるだけで、実は考えていることとは違うという可能性もある。すべてが胡乱な出来事なのだ。時折記憶をたぐっては、その断片を小説として記録していく他ない。

それでもやはり、僕には罪があり罰がある。
なぜなら、直観がそう告げていたから。罪も罰も、その透徹された真実は司法などにはない。ただ、己の心の中にだけしかそれは存在しない。
「どうしても……君は死になおさねばいけなかったのか」
答えは全て闇に霧散している。だからこそ、答えは常に僕自身の全てに漂い、ほのかに充たされているような気もした。

「そうだ、墓地へ行こう」
美代子に教えてもらった、彼女が眠るあの地へ。
明日の夜にでも、止まったときの流れに身を委ねて。
青いローズ・マリィの香りに乗って、冷たい眩暈がやってくるまで。

ふと、エスプレッソが産まれ落ちた。
白い霧のような湯気に深入りの香ばしさが漂泊し、数秒不安げに彷徨ってからやがて答えを見つけたように暗がりに溶けていく。
カップの中で黒色の光沢が小さな宇宙のようにたゆたう。
何かと何かが緩やかに解け合っていく様子を見つめてから、ゆっくりと口を付けた。

宵の味は、まだわからない――――
【了】
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