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自分の内面を「形」にする ---投稿雑誌『Inside Out』ブログ since 2007/11/15
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プロフィール
HN:
川端康史
年齢:
40
性別:
男性
誕生日:
1984/06/29
自己紹介:
『Inside Out』代表の川端です。
自分の内面を「形」にする。
こういった理念を持った雑誌である以上、私にも表現する義務があると思っています。
ここはその一つの「形」です。かといって、私だけがここに書き込むわけではありません。スタッフはもちろん作者の方も書き込める、一つの「場」になればと思っています。
初めての方も、気軽にコメントなど頂ければと思います。

mixi:kawattyan and Inside Outコミュニティー
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サークル
吉澤直晃

――聞いてくださいよ! 僕はどこにでもいる大学二年生です。しかるに西島匠という固有性を持つ男だと、ぜひとも知っていただきたいのです。
約二時間前でしょうか、我が大学最寄駅から徒歩五分の飲み屋「ぽおつ升」の店主へ、はるか先輩が拈華微笑してカウンター越しに練炭を注文したのでありま す。しかし鳥皮、つくね、軟骨を焼く作業に熱中していたマスター・升尾角太郎もさすがの百戦錬磨、酔いどれ自殺志願者の戯言には目もくれず黙々とじゅわ じゅわ遊戯を止めません。ところで僕は酒毒に撹乱された意識に先輩が円周率を唱えるありさまを映し、ひいては両肘に挟まれたふくよかなπの容積を演算して おりました。よきかなπの不定性、さだめなきこそいみじけれ。視線をテーブルに移すと我々の前には二合徳利が確か八本と、皿が歴々積み上げられた上に串々 々々々の墓、いったい勘定おいくらなるかと訝るものの、思考は宙に瞬く快感に破壊され「どうでもいいよ」「どうでもいいよ」顔の赤みを藍と染め直すことあ いなりませんでした。樫製の机を叩いた鈍い音が響き、握られた拳、前傾姿勢で垂れた茶髪が包むはるか先輩の頭部が揺らめいて、「観自在菩薩、ホイ!」「先 輩」「行深般若波羅蜜多時、ホイ!」。彼女は般若心経によって心のリズムを再起動しようとしているようでした。「色不異空、ホッ!」もちろん気が触れたの ではありません。狂気とは自己自身に忠実な人間への無理解によって捕捉されるものです。「空不異色、ハッ!」文学部三年生兼記憶会幹事・高田はるかという 人物を少しくながらも把握している者からすれば正当な論理からの帰結と説明できましょう。「色即是空、シャッ!」すなわち、傷心のあまり黄泉へ旅立った自 己の真言による回帰志向。かのアントナン・アルトー概していわく、オノレが実在するのはただ身体のあるここ一点であるのです。さて念仏が完全なる智慧の取 得法へちょうど差しかかるころ「ウッポロス」未開の言語と共にはるか先輩は顔を上げました。その容貌! 彼女は美しく、しかし台無しでした! 赤々と染 まった顔面があまねくを冗談めいた虚妄に見せておりました。彼女の逆立った柳眉を、少し膨らんだ小鼻を、何より熱情に彩られて繁茂する睫毛と、陰鬱を薄く 潜ませた隈に縁取られた、悪夢のごとき吸引力の顕現する虹彩を。ただちに炸裂せんばかりに血走ったまなこは、その実、エーテルの流動する行方を追跡するか のようにたゆたっていました。けれどもこれらの嘘くさいペーソスから、僕はかえって幻滅とは別の感情を紡ぎだし興奮しました。それが何かは後にお話しする ことにいたしましょう。げに恐ろしきは彼女を月の巧笑から太陽の憤怒へ誘ったヤキトリスト・升尾角太郎。と、鳥皮、つくね、軟骨の皿がことり。思わず仰ぎ 見ると、彼は変わらず火と戯れる仏頂面のまま。転じてはるか先輩は。瞬間に僕の頚骨を慄きが貫きました。中空にさまよっていた、彼女の目が、はっきりと、 軟骨の向こう側、一個の不在を見据えたのです。そして先の謎めいた呟きが明瞭な発音によって「ぶっ殺す」と再現されました。
「馬場芳久ぶっ殺す。私を捨てるとは大罪だ」
我々の所属するサークル、記憶会について確認しておきましょう。大学非公認、五年前に幹事・渋谷俊樹、副幹事・大久保隼人、会計・神楽坂愛美の三名で結 成され、今や総勢十五名の鯨飲者が集うカストリ・コミュニティであります。趣旨はずばり記憶そのもの、各々自由に物を覚え月に一度の発表会にておのが透徹 知悉を披歴、後に何もかもを忘却へ追いやらんばかりにひたすら酒を摂取するのです。その惨憺たるや無残きわまりなく、初期メンバーの行く先々では吐奢の オーロラが舞ったとの逸話さえ残っております。人数の増えた現在は個々人のアルカホール耐性を考慮し、致死量を目安にお開きというのが定例となっておりま す。
僕と記憶会の出会いは入学式の三日前、法学部新入生歓迎イベントから帰る途中のこと、あれはまるで交通事故でした。午後六時十四分、夜が始まりたてている ころ、怒涛の歓待に疲れ果て誰もいない自販機横で鼻の頭をテカらせていた僕は当時の副幹事・高田はるか先輩に疾風のごとくさらわれてしまったのです。「入 学おめでとう!」――蜜のつまった花を見つけたハチドリを髣髴していただきたい――「こんにちは」「これから予定ある?」「いえ」「それなら飲みに行かな い?」あれよの間に僕は彼女の目の不思議な引力に吸い寄せられ、気付くとアルミ缶に代わり二合徳利片手に笑声けたたましく「入会します」と当時の幹事・馬 場芳久先輩へのたまっていた次第であるのです。頤を放った芳久先輩が「吉報! そして冒険だ」エレキギター片手にゲロリアン大陸へ出立すると、はるか先輩 は澱んだまなざしで数分前より構想を練っていた自作の舞踊「ひも理論」に没入し始めたようでした。次々と繰り出される手招きが周囲を十次元のかなたの秘密 めいた暗示へ誘っている風でした。そして僕は確かに見たのです、虚ろな空洞にどこまでも玄なりと思われた彼女の目が光を取り戻し、ちらとこちらに振り向い たのを! ――幹事と副幹事のヰタ・セクスアリスを知ったのは、その十八日後でした。我がときめきはトイレットペーパー、他人の尻を拭くために破られる運 命を初めから背負っていたのです。正直に申し上げますと、あの夜、下宿に帰った後、酒と炭とタレのにおいに蕩けてはるか先輩に充満する妄念、その臨界点 へ、僕の神経回路と下半身は燃えた猫のようになってよがったものであります。その後も。何度も。
挑んでもいない恋に破れて爾来、僕はサークルでの本旨すなわちひたすらな記憶に勤しみました。はじめ法学部らしく六法でも順次やっていこうかと考えたも のの、それは現在法科大学院在学中の初代幹事の轍らしくどうも気が乗らず、まずは愛着のある文学作品に手を付けました。ありきたりな選択ですが興味こそ海 馬へ向けた至高の肥料でありましょう。五月五日こどもの日に開かれた昨年度第一回記憶発表会における僕の児戯は――有体に内容を説明すればマラルメを三十 篇トランス状態で朗誦したのですが――好評を博しました。トランスと申し上げますと、「苦悩」の「今宵はお前の肉体を征服しに来たのではない」という一節 を読み始めた瞬間、かの入会を決心した夜に揺曳していた幸福を見出した僕は、精神分析でいう「昇華」にあたるのでしょうか、パッションのフリクションとで もいったおもむきで象徴派詩人を憑依させたのであります。轟くように、あるいは、さざめくように声を出し。首を捻り、地団太を踏み、肩をそびやかし。自己 自身のイマージュへ手を砕きました――十次元のダンス。十次元。そう、けれども憑き物とはいえど、それはマラルメではなく僕自身への接近に他なりませんで した。この瓜実顔の十八歳は、猥褻で矮小なエロ餓鬼でしかありませんでした。なぜならば、表現の発端からして、しょせん、固有のしかし存在しない異性への 使い古された餞、つまり一大学生が夜な夜な繰り返していた性的衝動の開陳に過ぎなかったのですから。自涜は喝采を浴びました。僕は愚かしくも芸術の一端を 垣間見た気になって高揚していました。そしてその夜たらふく飲み、手を繋いで去る幹事副幹事を笑顔で見送り、翌朝ようやく頭痛と吐き気の中で自分の道化に 気がついて、二日酔い定例の発汗嘔吐小便に、流涙さらに口唇の冷ややかな血液を加えて体を枯らすこととなったのです。
けれども以上の出来事がなかったならば戸山七海と付き合うこともありませんでした。
暁の衝撃で気が塞ぎ、五月六日、僕はひねもす床に伏していました。入学してから無遅刻無欠席を続けていたので罪悪感もあるにはありましたが、程なくしてそ れは仮病で学校を休んだ子供かくあらんという背徳ゆえの心地よさへ転回し、朝からのメランコリーと融合を始め、自己を外世界へままよと放り投げたような気 分に達しました。僕を離れた僕は粘液になって、あらゆる外観に溶け込みながら、下へ下へと流れていきます。服から布団、床を侵食し部屋の外、階段を滑りア パートの出入り口からアスファルトを覆い道端の木の根の先々へ。排水溝を流れ落ち、川を辿り海、暗い海の底、あんこうに食われ糞になりなお潜って地球の核 へ。僕は分裂します。拡散します。無へ。「喰へ」ふと気がつくと元通り、自室で天井の染みのかたちに美を求めている西島匠が確固と存在していました。妄想 へ耽溺していても臓物は働くらしく、腹の虫はぐうと不満げに宿主を詰ります。窓へ視線を傾けると宇宙色が目に飛び込んできて少し驚きました。腹も減るわけ です。やおら起き上がって食料を探り「ユウレカ」、ハムと食パンが二枚ずつ次いで二リットル入りのペットボトルに烏龍茶が約半分を見つけすぐに貪りまし た。食べ終え一息つくと急に惨めな気分に陥り僕は苦笑したくなりました。何が、無へ、でしょう。空腹に負けて体を動かし、たかだか一食分の物資を発見した だけで喜びユウレカっているさまを想像してください。ありもしない第二のイマーゴを拝みながら恥部をさするエロ餓鬼に、なんと似つかわしいことか。汚れた 姿を避けようとした隘路がまさにその姿への大通りだったのであります。たどり着いたのは「もういい」という、意志薄弱な人間が最終的に辿りつく典型的な言 葉でした。死ぬ勇気があるでもなし、ひとまずここから逃げよう、寝よう、目が覚めれば曙光が精神まで照らしてくれるだろうと思い、まただ、馬鹿が、そんな 保証がどこにあるのだ、今日の朝があんなにも残酷だったのに――先ほどから溜まっていた自嘲が僕にひびを入れました。断続的に息が漏れ、口の端が痙攣しま した。笑みを作ることはできませんでした。この時点、表情筋の操作が不如意になったところで、感情と知覚が麻痺し僕は凍りました。粘性のない氷像となった のです。割れかけた氷など砕け散るのは時間の問題でありましょう。その崩落までの束の間を引き伸ばしてくれたのが、次の日の朝の七海の電話でした。記憶会 の同期で二日前に歴代アカデミー助演女優賞をそらんじた教育学部一年の彼女は調弦し忘れたギターみたいな声音で、午前八時に突然かけてごめんやらメールで 済ませなくて申し訳ないやら述べ立てた後、昼食を共にしないかと僕を誘いました。「今日?」「うん!」「そう」「どう?」「いいよ」五月七日は授業のない 曜日でした。約束どおり午後零時三十分に学生食堂の入口に赴くと、既に七海が――黒髪ボブに青縁のおしゃれ眼鏡、服装はヴィヴィアンで固定という、ある種 の女性にステレオタイプないでたちで――立っていました。僕を見た彼女はにこやかになりました、ほっとしたように。そしてカルボナーラを巻きながら、これ だけは会って伝えたかったと前置きした後こう言ってきたのです。「おとといの西島くんの発表、恥ずかしいもんだったね」僕は痛みを感じました「あれはただ のオナニーでしょ」唇のかさぶたが破れたのです「ただ、君の気持ちもわかるんだよね」しかし流れ出した血は前日とまるで違って温かく「私も芳久先輩でオナ ニーしたことがあるからさあ!」身体中のひびというひびに溶け込んでいきました。つまり僕は、
「ああ、西島くんになら言えると思ったけど、やっぱ恥ずかしい。――な、何がおかしい!」
笑うことができたのです。それも七海のように。
ほどなくして僕たちは恋人同士となりました。捨てる神あれば拾う神ありとはまさにこのことでしょう。
「捨てるなんて思いもよりませんって、芳久先輩は」
ただ今より一時間半前ほどまで場面を戻しましょう、「ぽおつ升」にて、はるか先輩の怒りを僕がなだめるといったやりとりが堂々巡りに続いていました。昨 年の子供の日に江国香織著「冷静と情熱のあいだ」意味段落冒頭文のみを独唱した元副幹事は一年と七ヶ月後の本日、冷静だけを失くした風体でしきりに不穏当 な発言を繰り返しておりました。曰く「ぶっ殺す」「脳を焼く」「塩辛にする」「スタッフでおいしくいただく」「ガチムチのゲイ一億で構成された無間地獄へ 突き落とす」など。頭髪は掻き回されて乱れ、顔面はいたるところで汗にまみれ、もち肌はいたずらに赤く普段の溌剌とした現幹事と明らかに違和を感じさせま した。それでは、なぜこうなってしまったのか、狂ってしまった理由を陳列しましょう。まず前提に、はるか先輩が独占欲の強いこと、芳久先輩に深く惚れてい たこと、彼が異性感情に浮薄な男性であることの三点を把握していただくと、話が見えてきやすいと思われます。ことの始めは昨日、十二月四日、日曜、午前八 時、授業とアルバイトでほぼ毎日てんやわんや忙しいはるか先輩がたまさかの休日に、泊まりこんで眠っていた彼氏へ久方ぶりのデートに出てみようと笑いかけ た後のやりとりだったようです。「バンドの練習があるから無理」疎ましげな口調にいささか脳血管のひりつきを覚えたはるか先輩は、しかしまだ怒りを感じる までには到らなかったといいます。が、「何時から」「九時」「もう行かなくちゃじゃん。何時まで」「夜の九時」「嘘、それってお金かかるんじゃないの」 「うむ、だから当分お前と出かけることはできん」あっけらかんと彼が、のたまい起き上がりクイーンオブザエイジ歌いながら着替え「じゃあ」と出て行くまで の数分間、彼女は絶句していたそうです。ただ話がここまでで終われば、はるか先輩も僕の眼前で化粧の裏を透かすことはなかったでしょう。
「で、その夜、日付が変わってもあいつまったく連絡よこさないんだよね。何かなって電話してみたら繋がんない。『電波の届かないところに』とか電源切って んじゃねえよって感じ。したらあいつには内緒でバンドのメンバーとアドレス交換してたの思い出してさ、ベースの人だったっけな、『まだ芳久と一緒にいるん ですか』って送ったんだけど、また返事がありえなくて『え、今日アイツと会ってないよ』。は? とか思ったホント。それでまた『あれ、バンドの練習だって 言ってたんですけど』なんてなるじゃん普通。どんなアンサー来たと思う? 『彼女と一緒にいたいから休むって電話もらったのはなんだったんだろう』。おか しいって。一緒にいなかったんですけど。で、思った、『他に女いんじゃね? 彼女とは私じゃないんじゃね?』。もうそれしか考えられない唯一無二のオン リーロンリー論理ですわ。絶望ですわ。そのようなわけで今宵に君を呼び出して飲んでいるわけですわ。やってられっか西島センセイ」酩酊の体で語り終えると はるか先輩は二本目の二合徳利を熱燗で頼み、そして今に到るのです。僕は僕で思うところあり心から同情の沸くことはありませんでしたが、空気を読んで、件 の話題に関係あるなしに関わらず頷いておりました。すると始めは艶もかくやといった彼女の相貌と相好が次第に崩落し、突然けたけた笑いだしたかと思えば一 転して沈黙を続け、ふけった妄想を調子はずれの裏声で述べ立てるという狂態を演じるころ、かつて憧れた人は台無しになってしまったのでした。
何度、昨晩の真実をぶちまけようとしたことか!
本当そうしなくてよかったですよ。思いとどまったのは、先ほど申し上げた「別の結論」が念頭にあったことで事態を対象化して観じることができた損得勘定の 結果でありますが、何より、僕の握っていた真実が今となっては真なる事実ではないと判明したのですからね。あの時点で情報を開示してしまったならば、僕は 再度ピエロと笑われたことでしょう。ああ、もうごめんですよ、そんなこと。いえ現在だってピエロには違いありませんが、他者から嘲弄失笑されるよりは滑稽 を自覚し主体的に笑わせる側でありたいのです。でなければ、こうして時間を頂戴してあなたに物を語り申しあげる意味はないでしょう。もちろん、はるか先輩 には言いあぐねた贋物の真実も、やがてはお伝えすることになりますが、時機を見て、先に、彼女が惑溺した妄想の一端を御耳に入れましょう。四本目の二合徳 利を転がしながら彼女は言いました「これは小説に違いない。私も君も登場人物で、この世界を構成する作者が運命を操っているんだ! そうじゃなきゃあんま りだ!」。映画――二〇〇七年五月十九日に公開された――に触発されたと思われるありきたりな発想ですが、なるほど示唆に富む思考法であるとはお思いにな りませんか。文学かぶれが言うには、詩がイメージを空間へ貼り付ける作業であるのに対して小説はイメージを秩序化して並べていく足掻きであるということで す。ならば僕だって、並行する出来事を語りという時系列に沿って列挙せんと試みているのだから、やはり作者の資格がありましょう。もっともこの小説の主人 公は「でも作者もナンセンスだよ。こんな普通な人間をちょっと不幸にしただけでは面白くもなんともない。きっと世を作り出す神を気取った、その実、才能の ない自堕落者に決まっている」なんて言いだすじゃじゃ馬ではありますけれども。――

――作者はキーボードから手を離した。ディスプレイにこびりついた唾の跡が卒然と気になり始めたのだ。疲労感を払うため首を回すと眩暈に襲われた。視界の 靄が晴れると共に目に飛び込んできたのは、いつもと変わらぬ自室だった。床は書物と洋服、ビニール袋や空き缶にペットボトルで見えなくなっている。無作為 に目を向けるとチョコレートの銀紙を軸とする右で歯ブラシの黄ばんだ毛が広がり、左で二ヶ月前に食べたフライドチキンの骨が乾いている。机の上にはノート パソコンのほかメモ帳、ボールペン、煙草の空き箱、ケーブルを外した電話、未開封の缶ビールと睡眠薬が散乱している。彼はメモ帳を手に取り表紙を開けた。 絵――キュビズム風の女性が頭部だけ黒く潰されている。顔をぬぐう。三日分の脂で指が滑る。ページをめくると両のページは罫に即してみっしりと字で埋めら れていた。「小説『サークル』メモ。登場人物。西島匠、視点者、大学二年生、サークル記憶会所属、切れ長の目と小鼻を持つ化政文化のような顔、女運なくフ ラれた回数は二桁に上り、高校生のとき知人数名に死なれた経験から親しい人物を偶像化する傾向がある、今回の主題は彼が人間をありのままにつかむための人 間的成長」メモ帳を放りモニターに映された執筆途中の原稿を読み返しつつ彼は苛立った。何が主題だ。この冗漫な文体はどうだ。腋で胆汁がにじむような不快 感を惹起させるではないか。第一、自らを小説の登場人物と仮定した言説は当初の構想にはなかったのである。上手く行かぬ叙述を詰るため、高田はるかが勝手 に動いたのだ。おまけにこの場面の「文学かぶれ」という部分は、単語自体はある種の人物一般を指すものにもかかわらず文全体では特定の人物おそらく作者自 身を指す書き方であり矛盾している。彼は歯噛みする。舌の先に垢が触れる。こめかみの鈍痛が肥大する。許せないのは西島匠と高田はるかである。再三の静止 も聞かず奔放に動き、こちらのプランを次々と破壊していく。力不足といえばそれまでだが、オノレの作り出した人間すなわち分身に指摘される筋合いはないだ ろう。才能のない自堕落者か、ほざいてくれる、まさにその凡人に破滅をもたらされるとも知らず――待てよ。作者は焦った。既に手綱の効かない登場人物が、 果たして都合どおりプロットを追ってくれるだろうか。答えは否、意識が混濁するまで乱酔した二人はもはや度し難い。高田はるかは馬場芳久と間違えて升尾角 太郎に危害を加える可能性があるし、西島匠に到っては語りの途中で眠りこけて小説そのものが終わりかねない。一応、物語を終局に導く人物が「ぽおつ升」に 現れる予定ではあるが、こいつ、所沢治の性格は気弱もいいところで、微醺を帯びた程度で二人の尻に火をつけることはできまい。逆に浣腸健康法を施術され切 れ痔になりそうで心もとない。「糞」呟く。映画ならばたいてい役者は監督の命令を聞くはずで、そうでなくともよいものを作るため努力をするだろう。だが小 説の登場人物は本番中だろうが休憩中だろうがおかまいなしに好き勝手ふるまう。考える。この隔絶を結びつける手段はないのだろうか。机の上にはケーブルの 外れた電話機、未開封の缶ビールと睡眠薬。「あ」彼は戦慄した。やがて数分間の瞑目の後、目の前の缶を掴みプルタブを引き一気に飲み干し、再びキーボード を叩き始めた。「そうだ」これしかない。「僕も」酔えばいい。「文学かぶれ上等じゃないか」快調に書いていく。笑いがこみ上げる。しかし彼は三つのあやま ちを犯していた。一つ目は、彼の採った手法が小説界全体を見渡した場合に目新しいものではなかったこと。二つ目は、登場人物を支配下に置こうというエゴイ ズムに取り付かれたあまり本来の主題を見失ったこと。そして三つ目、最終かつ致命的な過失は、彼の、自身が何者なのかを理解していなかったこと。――

――すみません、耳鳴りがしていたもので。体調ですか、平気ですよ、酒の醍醐味は寒気と鳥肌って渋谷初代幹事のお言葉をお忘れですか、ほら今年の合宿に立 ち寄っていただいたとき、飲み会の席で仰っていたではありませんか。話を続けましょう。一時間前の「ぽおつ升」には最新の邦楽やら知人の無能を嘆く愚痴や ら中道右派学生の政談やらが渦巻いておりました。このように僕が周りの音を聞くことが出来たのは、はるか先輩が二合徳利を舐める行為に専念されたようで一 言も漏らさなくなったからであります。ちろちろと白い縁から側面へ舌を這わせるさまはどこかいとおしげで、見ている者の鼻下を緩ませること請け合いでし た。おわかりでしょう。先から申し上げている興奮とはずばり情欲であり、「結論」とはつまり宿願たる性行為への希望でありました。無論そんなものは脳裏に 小さく浮かぶだけで、すぐに理性や倫理や責任から取り囲まれて砂にされるのですけれども、かつて好きだった異性と二人で酔っ払っている状況に冷徹でいろと 言う方が無茶ではありませんか。興奮くらい許されてもよいでしょう。いや許されるべきなのです。彼女の唇がなめくじよろしく徳利の口に滑ったとき、ああ!  不覚ながら僕の下半身は脳へ血液の集合を募りました。しかし前にならえの号令の行き渡った数秒後に欲動は離散の憂き目に遭ってしまいました。奴の登場に よって。がらり店の出入口が開く音に続き、聞き覚えのある滑舌の悪い言葉が耳朶を捉えました。「あ、幹事に西島くん、お邪魔だったかな」彼こそ話のラスト ピース、文学部二年、吉澤直晃、別称が文学かぶれであります。情報を提示しておきましょう。小説を書く習慣を持ち、記憶会に入った当初、例の五月五日には 「たけのこの里は砂糖、小麦粉、全粉乳、カカオマス――」と菓子の原材料を並べ立てるだけの地味な男でしたが、昨年の学校祭で「僕はもう記憶はやりませ ん」と宣言し、以来ひたすら自分の即興小説を吟じるパフォーマンスを続ける変わり者であります。サークル内での目立った人間関係もなく、なぜ会に出入りし ているのかは、謎です。かけもちする文芸サークルで作品を発表しているらしく、付いたあだ名が文学かぶれ。わずらわしいので略される場合も少なくありませ ん。「文学じゃん! おいでよ、退屈していたところなんだ」僕が反応するより早く、はるか先輩がてまねきをしました。「先輩、退屈って」「だって本当なん だもん」「いやはや二人とも相当に飲んでいらっしゃいますね」僕をはるか先輩と挟むかたちで座った吉澤は生ビールと軟骨、つくね、しいたけを注文し、耳に かかった黒髪をくしけずりながら鼻をすすりました。「風邪?」「ああ、家から歩いてきちゃったしね――はるか先輩?」「さっきからあの調子」「そうなん だ」「っていうかなんで中野から歩いてきたんだ作文家風情のもやしが。電車で来いよ」「口の利き方に気をつけろ、コケシの生存権は法律で保障されてないん だから。創作が完成したので喜び勇んでさ」「マジか、どんなの?」「端的に表現すれば主人公がアイデンティティを失う小説で」「小説!」「はるか先輩こん ばんは、お元気ですか?」「元気!」「それはよかった」「なめんな! 小説といえばな、かぶれ、さっき西島センセイと、私の人生が小説だって話をしていた んだ」「ほう」吉澤の目が喜色を帯びたように細くなりました「西島くん本当かい」「うん。だけどこんなつまらない人生を作るなんて作者いたらアホだよねと か先輩は笑っていたよ」「あそう」すると文学かぶれの微笑みは他人に安心感の欠片も与えない類に口を歪ませたかたちとなり「しかし僕は先輩の人生を書いて みるのもいいと思いますけどね」と言いました。「なぜゆえ」の質問に二秒ほど間を置き「先輩のような方は小説にすると輝くからですよ」。「はん」という僕 の怠慢な相槌によって話題はお開きとなりました。この、出来損なったオカマみたいな顔をした文学かぶれが、幹事の何か普遍的なものを射抜いているかもしれ ない僕の期待を、浅はかな世辞で裏切ってくれたのに拍子抜けしたのです。できあがったという小説もたかが知れていますね。彼も僕の幻滅を感じ取ったのか、 はるか先輩が再び「なぜゆえ」とせがみだすのを無視して話頭を転じました。だがそれがまたいけなかった。まったく、自分だけは空気を読んでいると勘違いし て場を悪いほうへ転がしていく人間とはどうしようもないものです。「ところで先輩と西島くんは何を話していたのかな」とたんに、吉澤の出現以来ずっと上機 嫌だったはるか先輩の表情が凍りつき、僕は誤魔化しの笑みで、やってきた発砲麦芽飲料と食物を店員から受け取ってやるしかありませんでした。沈黙の経過と 共に吉澤も、先輩のテンションが高かったのは自分の尋ねた話題を避けるためだったのだと気がついて目を泳がせました。「ほんじゃ、まあ」彼は瞬きを繰り返 しながらジョッキを手に取りました「いただきます」。が、彼はビールを口に含むことができませんでした「乾杯の前に飲むな!」というはるか先輩の鋭い叫び が飛んだからです。彼女はそのまま店員を呼びつけました。僕は悪い予感がしました。既に八本の徳利を空にして酔いは限界の域に達しているから、今夜アルカ ホールはもはや摂取しない流れになっていたのです。記憶会の公式な飲み会でもないのに寿命を縮める飲み方をしたくはないというのが、双方の本音だったはず でした。なのに「熱燗を!」彼女は高らかに叫びました「記憶会万歳!」。そして先輩、酔眼朦朧として「聞け! 顛末を!」。引き金を弾いてしまった張本人 は、流れ弾に当たった僕を申し訳なさそうに見ながら「はい」としおらしく返答しました。それからの三十分は、はるか先輩の独壇場でした。内容はお話した通 りなので割愛しますが、以前に話したときよりもアルコールが嵩んでいたこともあり身振り手振り話しぶりはオーバーを極め、その狂態はさながらオフィーリア を思わせました。合間に日本酒を注ぎます。先輩は喋るばかりで御猪口を持たないし、文学かぶれは日本酒スパイラルに巻き込まれるのを警戒して手を出さず、 結局は僕が一人で飲むかたちとなりました。話は既知で聞くところなく、つまみもあったものではなく、安酒特有の化学的な後味が胃から頭部へ飽和し悪酔いと 俗称される症状一般を引き起こしてくれました。まず目の玉が勝手に回転を始め、意のままに操れぬ器官への憤りが動悸、息切れ、頭痛や吐き気に置換されてい きます。このときの手際は見事なもので「あ、頭いたいかな」と思った瞬間に頭蓋は銃器で爆砕されたような感覚に陥り、「あ、気持ち悪いかな」と揣摩した刹 那に胃壁では甲虫が繁殖しているような不快感が広がるといった具合です。悪漢ほど忖度が上手いとはよく言ったものです。言わない? 僕が今しがた考えた台 詞ですからね。――申し訳ありません、いまだに悪酔いを引きずっているもので。そんなわけで、はるか先輩の話が終わるころ、単純計算で累計一合もの日本酒 かっ食らった僕は、胃液のかぐわしきにおいをかぐために席を立って走りました。幸運にも空室を確保し西洋式便器を抱え込むとあとはげえげえするばかり。不 思議なもので排泄とはすべからく快いものであります。このとき僕は恍惚と、神経と筋肉をほどき一本の繊維となって毛穴から抜け出して実存から剥離していき ました。行き先は時空を越え前日に及び、欲情と悔恨と復讐心がデカルコマニーされた霧となって、自室の六畳いっぱいに広がりそのまま、てっきり真実だと思 い込んでいた出来事を、この身は便座にうつ伏したまま、魂だけで追体験した次第であるのです。
昨晩七時、コタツの上に鎮座ましますテスト勉強の跡に満足しながら僕は胸を躍らせておりました。アルバイトを終えた七海が今年度後期からの通例として毎 週日曜日の夜を共に過ごすため、大学からほど近い我がアパートに向かっているはずだったからです。始まりは、彼女の予想到着時刻まで三十分ほど間があった ので「マヌ法典」を読み進めようかと手に取った矢先のことでした。インターフォンが鳴り、鍵をかけ忘れていたドアが開いたのです。僕は瞬間、少し早めに労 働を切り上げた恋人が息せき切って入ってくるものかと思い顔面を弛緩させ腕を広げました。が、黒革の手袋に握られた未開封の一升瓶でした意識と扉の間隙を 縫って現れ、次に「よう」という野太い声、続いてギターケースを背にした大柄な男が転がり込んできました。「芳久先輩」僕が素っ頓狂な声を上げると先輩は 破顔して「飲むぞ」。芳久先輩は僕から見て激情の人でした。激情を押し留めているような眼の間に激情が吹きぬけようとして高くならざるを得なかったみたく 鼻が隆起し激情を漏らすまいとするごとく真一文字に結ばれた唇が激情を言葉にしてかせずとも吐き出すのです。したいことをする。まさしくロックを体現する 男でした。それは恋敵というよりも、性的魅力で僕を魅了するはるか先輩と対をなすにふさわしい、カリスマティックな憧れでした。二人の関係を知ったときに も僕は自己の道化っぷりを責める気持ちだけが起こり、芳久先輩への悪感情は決して抱かなかったものです。だから勝手に上がりこまれたこのときも無論、歓迎 し、あとで七海もびっくりするぞ、と浮かれこそすれ邪魔などとはゆめ感じませんでした。「ようこそ」「おう」グラスを差し出し瓶を受け取り酒を注ぎ合い杯 を交わし、一気に飲み干し息つきをつくと僕は笑って切り出しました「ギター背負っていらっしゃるってことはバンドの練習ですか」。芳久先輩は自分で二杯目 を注ぎながら「いやサボタージュした」と言いました。「そうなんですか」「俺はレニー・クラヴィッツの生まれ変わりだから練習しなくてもよろしいのだ」 「まだ生きていますけれどね」「ならばジョン・フルシアンテでもいい」「彼も生きています。要するに先輩はミュージシャンの知識が皆無なのですね」「いや アクセル・ローズの命日なら知っているぞ」「生きています」「そう、ロックは死なないのだ」このような会話を続けながら大吟醸「ひぽくらてす」は空になり 「いそくらてす」のが美味いだの不味いだの盛りあがっていると、昨晩二回目のインターフォンの音が部屋に響きました。芳久先輩が「お。七海ちゃんか」僕よ り早く立ち上がってドアを開けると、「わ」という愛らしい声が「せ、先輩」聞こえました。「おう。久しぶりに匠と飲みたくなってな」「そうですか。じゃあ 私も御一緒していいですか」「うむ。しかし酒が切れてしまったよ」「大丈夫。私も持ってきたんです」「その袋はまさか」「まさかですよう」言うが早いか肩 に紙袋を提げた七海が先輩の陰からこたつに滑り込み、袋の口を留めていたセロテープを剥がして一升瓶を取り出しました。僕と先輩は叫びました「大吟醸いそ くらてす!」。かくして昨晩の飲み会は期せず高級日本酒品評会となり、先に飲んでいた二人は計八合ずつ、記憶会の中では弱い部類に入る七海は四合の酒を食 らいました。そうして大脳新皮質を蕩けさせた三人はへべれけになって無礼講を働いたのでありました。「芳久さんって記憶力ないですよね」「匠よ得意分野 ばっか覚えてたら脳が腐るんだよ」「あなたこそ自分で作った曲の弾き語りしかしないじゃないですか」「俺は曲作りが苦手だからいいんだよ!」「ぶっちゃけ た!」。そのとき七海が先輩にしなだれかかり「私、入学したてに見た芳久さんの発表に感銘を受けたんですよ。もう一度やっていただけませんか」と割って入 りました。僕は、胸に多少の痛みを覚えましたけれども、嫉妬であるとは思いませんでした。むしろ尊敬する当時の幹事が行った弾き語りを自慰の余韻に呆然と していたによって覚えていなかったための悔しさなのだと受け取ったのです。「そうそう、こどもの日にやって頂いたやつ、僕からもお願いします」今になって 尋ねてみたいのが、このとき作った笑みを芳久先輩はどう受け取られたのでしょうか、ということです。やはり道化が演技する滑稽としてなのかどうか、気にな る次第であります。「嬉しいこと言ってくれるじゃないの」先輩がはにかみながら「だが忘れてしまった」「記憶会にもかかわらず!」「うるせえ。今度、思い 出しておくから、そのときまだやってほしかったら言うがいい」と宣言すると七海はとろみを帯びた目で「ありがとうございます」と呟きました。その様相は冷 静になってみるとヴィヴィアンで固めた女の子がとりがちなコケティッシュであるのですが、何度も言います、全員が泥酔状態にあり、僕も彼女と同様に芳久先 輩に憧憬を抱いていたのです、嫉妬などありませんでした。――ありませんでした! 昨晩は皆が笑顔だったのです。僕はあらゆる空間に幸福をもたらしてくれ る酒が好きです。それは今でも変わりません。いや何も変わるはずはないのです。変わったとするなら、きっと僕の方なのでしょう。やがて眠気に苛まれて視界 がぼやけ、眼前の男女が見分けられなくなって致した瞬きを境に、遠く後方から人気ミュージシャンによるポップスと、炭火で鳥を焼く音が聞こえてきました。 そう、「ぽおつ升」の便座に伏している、今より二十分前に戻っていたのです。高揚と不快は消え、心身は清風が通ったように覚醒していました。攪拌しすぎて いまだ戻らない神経が完全に再構成されるのを待ちながら、僕は水に浮く吐奢物を見つめました。血肉になるはずだった胃の内容物が、もはや忌み嫌われるゲロ でした。流してしまい再び水面に目を向けると、夢で見た光景に意味を付与するのを拒む臆病者が見えました。僕は思いました。いつも本当の意味で吐いたこと がない、モザイクの美しさに惑わされて、その奥を覗こうとしたことがないと。僕はうつつと認めることにしました。あのとき自室で気を失いかけながら薄目で 見たことがら、すなわち芳久先輩と七海がくちづけしていたことを。しかしやはり酔っていたのでしょうか、昨晩の過ちは酒癖の悪い二人にありがちな冗談だろ うと僅かな希望に信頼を寄せることにしました。他に解釈できなかったのですから仕方ありません。愛する人そして尊敬する人と過ごした一年半を否定する考え など起きようがなかったのです。ただ、欲情を成就させんがために、いえ成就させる妄想を続けんがために、悲しむはるか先輩に対して情報を隠匿した自己への 嫌悪が増大していきました。またしても僕は自己憐憫の塊、局部をしごく手を精神に変えただけで何ら進歩のない類人猿でありました。個室を出て洗面台で顔を 六回すすぎました。鏡を見ると赤い細目が腫れていました。知っていること全てをはるか先輩に話し、今まで黙っていたことを謝ろうと決心し、僕は頬を両掌で はたきました。そして便所の出口へ向かって一歩を踏み出したそのときに、吉澤が入ってきたのでした。「大丈夫か西島くん」「ああ。吐いたら楽になった」快 活な調子で言い放った僕は一升を飲み下した男にふさわしからぬ精悍な顔つきをしていたことでしょう。が、文学かぶれは作家に必要な要素と思われる洞察力を 発揮することなく淡々した調子で告げました。「そうか。そろそろ出よう。やっこさん、待ちくたびれて寝てしまったよ」「え」酒場のトイレは一挙に似つかわ しい空気を取り戻したようでした。
店の外は肌を切り刻むような寒波と酒屋の立ち並ぶ学生街特有の熱気の相克から作り出された夜半でした。壊れてしまった若者が道のあちこちで吐くやら口説 くやら倒れるやら抱き起こすやら千鳥足で歩くやらするさまを街灯がつややかに照らし出していました。男二人で女一人とはいえ重心を失った人間を暴徒の中で スムーズに運ぶのは難しく、しかもはるか先輩は担がれた下僕を詰りながら両掌で耳や鼻をつねってくる次第でありまして、「ぽおつ升」から通常二分のところ 五分かかって坂を上り大学最寄駅にやっとこさ辿りついたのが冒頭から十分前のことでありました。「財布を抜くのはいかがなものか」と、はるか先輩の勘定を 立て替えた吉澤は悲しそうな表情で「貴様らあそこには近づくんじゃないぞ」と坂の頂上に聳えるラブホテルを指差しました。けれども駅から歩いてさほどかか らぬ場所に部屋を借りている僕に対しての皮肉としては二流未満で、またしても彼は文士としての未熟を曝け出したと思われました。「じゃあね」「お疲れ」は るか先輩を僕に預けて文学かぶれは線路沿いに歩き去ったのですが、一度だけ振り返り電飾で緑に染まった左眉を吊り上げたのが印象的でした。
残った仕事は現幹事に電車へ乗ってもらう作業ばかりとなりました。「帰れますか」彼女は反応してくれません。「もしもし先輩」僕の肩に縋ってうつむいた まま動きません。じれったくなって耳元で叫びました「はるかさん!」。すると急に「なめんな! そしてさわんな!」腕を振りほどいたはるか先輩は、まだ力 が入らないままと見えて、きちんと立てずにしゃがみ込んでしまい「びっくりした」などと呟きながら胡乱な視線をこちらに向け、また逸らして息を深く吐きま した。「近くで叫ぶなよ息で耳ねぶられて気持ち悪いんだよ」「ああ」ようやく僕は悟りました。先輩もまた一年半前から僕の自涜を知っていたのです。知って いてこれまで平気なように汚らわしい猿に触れていたことを。僕は言いました「すみませんでした」。彼女は言いました「わかればいい」。この瞬間、周りの喧 騒が失われ、単に人が通り過ぎて行くだけで何も聞こえなくなりました。僕はやっと彼女を勝手な妄想としてよりも確固たる大学三年生の実在として見られる、 と思いました。「先輩」「はい」「僕はあなたが」「わかっている」「はい」「でもそれ以上言ったら殺す」「はい」「お疲れ」「お疲れさまでした」そうして 再び、今度は力強く立ち上がり僕を見て「ありがとう」はっきりとした口調で述べました、光の輪を帯びた、初めて会ったときのまなざしで。ふらつきながら改 札の向こうへ歩いていったはるか先輩を見送りながら僕は、この美しく台無しで愛おしい彼女を苦しませるような真似は二度とすまい、と心に誓ったのでありま した。
さて冒頭より五分前、僕は坂の下にあるアパートへ帰ろうと歩き出したわけです。終電に乗ろうとしてすれ違っていく酔いどれたちの顔を漠然と見ながら、恋 人が今どうしているだろうなんてことを考えていました。はるか先輩は確かにいまだ憧れではあります。けれども今の僕を形成してくれたのは紛れもなく七海 で、実存として自分と溶け合える唯一無二の人間こそ彼女でありました。すると、七海の顔が幻影として空中に浮かび上がりました――最初はそう思ったのです ――しかしすぐにそれが現実に終電を目指して歩く七海であることを認めました。彼女は僕に気付いた様子もなく右方を黙って通り過ぎ、改札を通って消えてい きました。声をかけようとも思ったのですが、とっさの出来事に軽く右手を浮かすことしかできませんでした。それにしても――と考えます――いったい七海は なぜ終電の時刻までこの街に残っていたのか、遅くなったとしたらなぜ僕に連絡して泊まっていかなかったのか――だがまあ、僕のように知人と酒を飲んでいた のかもしれない、ひょっとしたら記憶会のメンバーとか――ここまで考えたとき、脳を閃光のようなものが貫きました――七海との出会い――はるか先輩の愚痴 ――今なら掛け値なしに省察できる芳久先輩の性格――吉澤が最後に言った言葉は果たして皮肉だったのかどうか。「七海は」僕は再度「いいか」歩き始め「最 初から」予定とは進路を変えて坂を上り「わかっていた」三分後「ことじゃないか」頂上に聳える「はは」ラブホテルの麓に立ったのです。見慣れた男が煙草を 吸っていました。
「芳久先輩」
彼は目を丸くしていましたが、やがて、
「こんばんは」
煙を吐き、
「ちょうどよかった。これから匠ん家に泊まらせてもらおうと思っていたのだ。金がなくて宿泊できなくてさ。相手は帰っちゃったよ。ところで夜中に散歩か?」
笑いました。僕も頬を緩ませました。しかしそれは今まで偶像視していたカリスマへの追従ではなく、まだバレていないと勘違いしたがっている道化の滑稽に 向けてのことでした――そう、はるか先輩を苦しませまいという矜持を実行する機会を与えてくれた芳久先輩もまた僕と同じようにピエロでした――僕はごく自 然な態度で、右足をさきほど絶頂に達したであろう彼の下腹部へめり込ませました。うつ伏せに倒れる芳久先輩を抱きとめ柱にもたれさせ、顎を殴った後に申し 上げた言葉を、覚えておいででしょうか。このサークルに所属する者ならば然るべきですよね。
「聞いてくださいよ!」
以上であなたが災難に遭われた理由の説明を終わります。僕は大学二年生であり西島匠であり物語の作者であり登場人物でもあります。あなたはどんな気持ち でしたか。操り人形を支配する作者のつもりか道化のダンスを楽しむ読者のつもりか、それとも人形であることに気付き最後に憂き目を見るだろうと予期してい ましたか。そして特に申し上げれば、もしも誰かが我々を外から眺めていたとして作者か読者か知りませんが、僕らを笑っていることでしょうかね。
存分に笑うがいい! いずれあなたも道化に違いはないのだから。――

――作者は笑っていた。膝を叩き、涙を流し、横隔膜を引きつかせること五分、喜悦は一向に衰えない。さらに五分が経過し、ようやく呼吸が落ち着くと、眼を 剥いて勝ち誇った。「どうだ、小説を完結させたぞ。登場人物の反乱も構造の中に閉じ込めてやった。僕の世界に思い通りにならないものなどないのだ。僕は作 者だ。しょせん脳内の寄生虫である西島なんぞ道化に過ぎないのであって創造者を名乗るなどできやしない。その証拠に物語が終わってしまえば奴は死ぬ。しか し僕は生きている」。躍動した心地で一服しようと煙草の箱を取り上げると「空か」舌を打ち、作品を書き始めてからというものの一歩も外出していないのを思 い出した。「買いに行きますか」。彼は椅子から立ち上がり伸びをして鍵と財布を手に靴を履き扉を開け日光を数日振りに浴びた。そこで起きた。ひどく肩が痛 むので回すと大きく鳴ったけれども、頭頂部から頚椎にかけての鈍痛が和らぐことはなかった。煙草を手に取り火を付け煙をくゆらせつつ状況把握に努める。ど うやら机にうつ伏して眠っていたらしい。まず目に付いたのは空になった錠剤入れだった。「僕は小説を書き上げ煙草を買うために部屋を飛び出した。次の瞬間 に起きた」彼はおもむろにノートパソコンの画面を覗いてみた。「ああ」そこには表示されていたワードプロフェッサーには一文字も書き記されていなかった。
「僕は作者ではなかったのか?」
以上の一万八千文字弱を書き上げると僕はデータを上書き保存した。ともかくも書き上げた達成感に身を浸してぼんやりと考える。彼のように一個の宇宙を円 環のもとに完結させる人間は、自身も同じ秩序に従うことをうけがう必要がある。翻ってそう主張する僕自身も円の一つである可能性は否めない。今しがた書き 上げた作品は推敲を終えるまで完成することはないが、いつか何の修正も加えずに読み下すようになった時点で僕は作者ではなく読者に位置づけられるだろう。 そして万が一、この想像が誰かに記録されているとするならば僕もまた登場人物という道化を演じていることになるのだ。「ふん」僕は自分の想念を鼻で笑っ た。かような同心円状の構造を自覚しているにおいて僕は彼などと一線を画す存在である。西島匠という最小の輪があれば必ず最大の輪がある。それが僕、吉澤 直晃なのだ。不意に腹が音を立てた。そういえば今日は何も食べていなかったな。焼き鳥なんかおいしそうだ。――
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