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自分の内面を「形」にする ---投稿雑誌『Inside Out』ブログ since 2007/11/15
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プロフィール
HN:
川端康史
年齢:
39
性別:
男性
誕生日:
1984/06/29
自己紹介:
『Inside Out』代表の川端です。
自分の内面を「形」にする。
こういった理念を持った雑誌である以上、私にも表現する義務があると思っています。
ここはその一つの「形」です。かといって、私だけがここに書き込むわけではありません。スタッフはもちろん作者の方も書き込める、一つの「場」になればと思っています。
初めての方も、気軽にコメントなど頂ければと思います。

mixi:kawattyan and Inside Outコミュニティー
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その1からの続きです。

その日の午後

午後は主に文書作成の仕事をこなしました。仕事の前に少しだけ私の会社に触れましょうか。私の会社は汐留にあり、非常によく名の知れたIT企業「スカイソ フト」の一関連会社で主にエコロジー商品の製造販売をしておりました。たとえば捨てても環境にいい料理用オイルですとか生ゴミを堆肥に変える機械ですと か、リサイクル古紙でつくったノートですとかおよそあらゆる日用品を「エコ」のコンセプトで売っているのです。なぜIT企業にそのような関連会社があるの かと言えば、それは旧経営陣が著名な「スカイソフト」の看板にぶら下がる形で、その傘下に入りたかったからでしょう。もともとは知名度の低いエコ商品メー カーと、エコのイメージがほしい「スカイソフト」の利害が合致して、このような接収を行ったのだと聞いたことがあります。「スカイソフト」はたしかに飛ぶ 鳥を落とす勢いの新興企業でした。テレビ局や最大手の広告会社、化粧品会社の壮麗なビルが建ち並ぶこの汐留という一等地に、新興の「スカイソフト」のオ フィスがあるのはその証拠と言えましょう。
「ご立派ですねぇ、大きな会社で」
大学も終わるころ、内定先をきいた親戚の大人達は決まってそういいました。私も誇らしい気分になって「大変ですけど、やりがいがあります。世の中に貢献できる仕事ですから」と答えていました。今思うと非常に無垢で無知な思い込みです。
大人達は決まってそういうものなのに、私は一人得意になっていたこと。大きな会社だからといって自分が立派というわけではないこと。考えるまでもないような社交辞令にすぎないのに。
そうして「大変な上に」「やりがいはない」ことに気づいたのは入社して数ヶ月後でした。急成長する会社というのは、人件費というコストを下げることで競争 力を確保していたわけです。要するにお給料を下げているのです。営業マン達はどんなに残業をしてもそこに報酬はありません。それでも競争に敗れて職を失う わけにいかず必死に働いていました。そうです、大きい会社だから安定というのは今や間違いで、それだけ大量に人を雇って、その分人が辞めていっているので す。だから私が就職できたのも親戚達が思うほど困難ではなかったようでした。そうするとすがりどころである「やりがい」にいっそう期待を寄せてしまいます が、これは学生の幻想でした。仕事というのはルーティンばかりだからです。同じようなやりとりを繰り返すだけで、環境の役に立っているというような実感な どまるでありません。そもそも、売っている商品も怪しい物でした。大手古紙会社が実はリサイクル率は表示されているよりもっともっと低かったということが ニュースで明らかになりました。そこで調べてみると、リサイクル商品というのはかえって生産にエネルギーを消費する場合があるというのです。にもかかわら ず私の会社は「リサイクル古紙のみで作ったノート」を環境によいエコ商品として売るスタンスを変えませんでした。その商品はシンプルかつ洗練されたデザイ ンもあり、気軽に購入できる売れ筋だったからです。考えてみると、消費者はそれで「エコ」をしている気分になり、会社は儲かり、誰も嫌なおもいをしませ ん。エコは儲かるから会社はエコを前面に出しているだけで、会社というのはもうけるために設立するのですから、それも善意なんかではなく儲けのための一つ の戦略なのでしょう。
そのこと自体はもうずいぶん前に気がついていました。にもかかわらず、あくまでも親や親戚には気取って「環境に貢献してる」なんて答えていたのですから恥ずかしい話です。
ただ、そういうことを全部わかった上で、今日はなお仕事に全力で取り組みたいのです。自分のすべきことを全力でやる。任されたことを自分の責任でこなす。 会社がたとえ少しくらいうさんくさいことをしていたとしても、それでもたくさんの従業員を雇って、従業員とその家族を支えているには違いないのです。商品 が好きだという消費者もいます。今日でお別れだからこそ、そういう人達に対して手を抜きたくないと思います。なんだかんだ言って、そうやってひねくれて世 の中を見ていれば手を抜く理由がみつかると思っていたのかもしれません。
さて、午後は事務仕事をこなすスケジュールでした。会社の事務仕事では、誰かが決めたことを誰が決めたのかわからないようにして、決めた本人すらもわから ないようになって、とにかく決まったことを決まったとおりに通り一遍の文面にして、どうしたら会社の責任にならないか、ひいてはどうしたら自分のミスにな らないかだけを気にかけていました。大きな目線で会社が世の中に何をしているかを口先では家族や友人に誇りながら、心の底から会社や上司を尊敬することは なく、ただミスがないよう、責任をとらないよう、叱られないよう、出過ぎないよう、全能力を会社や世の中への貢献ではなく保身に使用していました。自分は 大きなシステムの中の一つであるから仕方ないと。疑問を持たないことがある種の要領の良さにつながり、「よくやってくれる女の子」という評価を得た私は得 意になっておりました。恥ずかしながら私にはそういう仕事しかできませんでした。
たしかに私のできることなどたかが知れているでしょう。会社、いえ社会というのはとてつもない化け物のような巨人です。いち人間がどうにかできるものでは ないことは普通の社会人なら感じ取る事実だと思います。それにしても自分のしていることくらい理解してできなかったのか、納得のいかないことはきちんと考 えることくらいできなかったのかと穴があったら入りたい気分です。「よくやってくれる事務のロボット」でも置き換えられるということに感づきもせず、私が ほめられ認められていると思っていたなんて、これが恥でなくなんだというのでしょう。
「例の文書、もうできた?」
ふいに女に声をかけられました。上のフロアの法務課の係長でした。ベージュのスーツを身にまとい、髪を束ね理知的な顔立ちです。女ながら係長になるだけのことはあり、スマートで強く賢い社員と評判でした。
「はい、もう完了しています。わざわざお越し頂き恐れ入ります」
「いいのよ。・・・あなたにはこちらから出向こうと思ってたから」
付け加えますと、係長は彼の新しい彼女です。私とつきあっているときから彼の彼女をやっていたようです。
彼女はその理知的なまなざしで冷たく私をみていました。私に釘を差しに来たのでしょうか。かつての私ならどんな反応をとったかわかったものではありません が、私はもう解放されていました。どうでもよいというより、むしろ彼女に対していとおしさすら感じていたのです。だってそうでしょう、捨てられた女にまで 念のため牽制をするまで普通はしませんよね。できる女というのはそういうことにまで気が回る。もっと気ままに生きたら楽なのにと思う反面、そうした賢明な 努力を惜しげもなく行う彼女の生き方は立派であって、それでかわいい。よしよしといってあげたくなる。なるほど、彼女なら彼をしっかりと世話してあげられ ることでしょう。何かと甘えてばかりいた私と違って。
「係長」
「なにか?」
「お幸せに」
私はにこりと笑いました。ただ、それだけです。彼女は一瞬ぽかんとしましたが(そういうところもかわいらしく、彼が好きになったのもわかります、私がオト コなら彼女をきっと好きになるでしょう)、その後すぐに顔を引き締め、私の手から強引に文書を受け取ると颯爽と去っていくのでした。
本当に、お幸せに。

その後定時で仕事を終えた私は、予約していた病院で検査結果を受け取ってまっすぐ帰宅しました。夕暮れの赤銅色に染まりきった空を眺めながら、いつもと同じ、山手線に揺られて。


その日の夜

部屋の中で目を閉じていました。畳は涼しくひんやりとした感触を伝え、まぶたを透過する蛍光灯の光が弱々しく闇を和らげます。特にやることがなかったのでそうしていました。
見たいいテレビもありません。今までは毎週のように見ていたドラマも気にかかりませんでした。再来週は見ることはないのですから、今週見たところでどうだ というのでしょう。いえ、今週の内容だってもうどうでもいいんです。たぶん私は見たいドラマがあったわけでなく、見なければならないドラマだったから見て いたのです。豪華キャストではじまる高視聴率間違い無しのドラマ。これを見ないで会社に行って同僚たちと何を話せばいいのでしょう。仕事のこと、人生のこ と、はたまた学問のこと?そんなものは私たちにはもう関係が無く、そんな話の結論はつまらなくて、なぜならオンナたちは男と違ってそんなことに救いを求め ないからです。切ない春風のように過ぎていくオンナという刻を少しでも楽しもうと、恋愛に、洋服に、ドラマの話に花を咲かせるのです。そうした話について 行けなければその風に乗ることができないのです。
このような話はあまりに悲観的でしょうか。二〇代のあんたはまだ若い、と三〇代のオンナたちからは叱られてしまうかもしれません、オンナというのにはまだ 先があるのだ、と。けれども私たちは常に焦っています。今が一番いい時期だ、いま結果をださなくては。一六歳の頃、少女という時代を過ごしていたときもそ う思っていました、いまが一番すてきな時間、すてきな女の子。一八歳で大学生になったときもそう思っていました、華の女子大生、結婚も何も考えず大人の男 たちともつきあえる。そういうとき、四つも上の人間を見れば、たとえば一六歳の頃二〇歳の人間を見れば「とても大人でしっかりしていて、でもおばさん」と なっていたのです。実際、高校の友人、あのレイプをされ自殺した彼女は援助交際をしていました。「ハタチくらいになって誰にもチヤホヤにされなくなる前に 今を最高に楽しみたい」。彼女の口癖だったと思います。そうして奇しくも約束通り彼女は大人になる前に逝きました。あら、そうすると彼女の死は予定通り だったのでしょうか。今となってはわかりませんが、ともかく二〇代の私から見れば三〇代の女性はやはり遠くにいる大人であって若いオンナではないのです。 三〇代からしたら四〇代がそうであるように。それくらいの年になったら落ち着いておばさん相応にならなければいけない、だから今が最後、今が最後・・・か くして最後という焦燥が一〇年程度は続いてしまいました。私たちは焦ることに慣れてしまっているのです。それがいま、解放されている。
テレビを見ないでいいということはなんて楽なのだろうと心の底から思います。もう芸能人のファンをやったり、着ている服をチェックしたりしなくてもいいんだ・・・。
緩やかな開放の中、奥底にあった記憶が目を覚ますように思い出されました。それはインドの記憶です。独特の臭いと音楽、そしてゆらぐ蜃気楼に包み込まれていました。
インドなどに行ったのは、学生時代の卒業旅行で「最後に何か」という気持ちからでした。といっても同期の女の子二人がおりましたので、一人旅ではありませ ん、危険なことは興味があるけれど一人は嫌で、できれば三人、オンナとは三人集まると別の生き物のように強くノリがよくなれるのは人に知られるところでは ないでしょうか。さて、そのインドはジャイプール、とある小さな飲食店で一人のバックパッカーと出会いました。彼は二〇代のようにも三〇代のようにもみえ ますが、顔つきが決定的に私たちとは違いました。もう二年も中国からチベット、ネパール、インドまで旅をし続けているとのことです。なんといいましょう か、乾いた風にさらされて殺伐としているのに、その風でおよそ一切の無駄が風葬されそぎ落とされていました。実にシンプルな表情なのに、いろいろな出来事 があって様々な思いがあって最終的に一つのシンプルで端的な本質に行き着いたことを、その乾いた黒い瞳が物語っているようなのです。一言で言えば、それを 旅人というのかもしれません。なぜ彼と会話をしたのかは思い出せませんが、あの国を取り巻く、まとわりつくような熱気と、不可思議な音楽が理由のないこと をさせたのかもしれません。
友人が「二年も一人で寂しくないの」と尋ねると彼は少し言葉をさがしてから、やがて丁寧に語りました。
「・・・この国のカレーは大概とても辛い。でもそれが当たり前で、たまには甘いカレーがたべたいとかは考えないでしょう。甘いものが食べたければ別のデ ザートを食べればいいです。“旅行”のことはわからない。でも“旅”のことは少しわかります。“旅”は一人でするものです。時折道連れができることはある けれど、でも旅の始まりも旅の終わりも一人なのです。それが当たり前だったから、一人旅は寂しいということは考えもしないです。インドカレーに砂糖の甘さ を求めないように」
そうした彼の様子をみて、なぜカレーが出てくるのか、この人はよほどカレーが好きなんだと思ったわけで、その当時の私がどこまで彼の言葉の真意を理解でき たものか疑問です。というより、そういう話があったことを忘れていました。理解していないから思い出さないのです。記憶にあったのはその屋台で私はおなか を壊した、ずいぶんカレー好きな人がいておもしろかった、という内容です。これもまた今の今にようやく真意に気づくとは恥ずかしいことです。恥ずかしいこ とすら気づかずに生活を送れる点が特に悪い。けれども私は重要な事を思い出せたのです。彼は旅人であって、私と友人は旅行者にすぎなかった。言葉は似てい るけれどその差は決定的です。いまならばわかります。本物の旅人は一人なのです。人生というのは旅に比喩されます。なら、本質的には旅と同様人生とは一人 で歩くもののはずです。それが普通で、それ以上でもそれ以下でもない。寂しいとか孤独うんぬんは問題でないのです、はじめからそういうものなのだから。そ れを今私はより深い直感的なもので感得しています。私はいま〝旅人〟になったのかもしれません。ならば、旅の恥はかき捨て。私の恥も捨てて、別の地平に歩 んで逝けることでしょう。
おもむろに目を開きました。白い天井が見えます。私は天井を見ているのが好きでした、安心するからです。何かに仕切られているというのは安心します。世の中から、社会から、職場から、この小さな安アパートはそれでも仕切りを与えてくれました。
たくさんの男たちと寝ましたが、そういうとき暗がりの先に見える天井はとても不安に思えたのを思い出します。隣で彼は満足そうに眠っています。私は独り無 感動な眼で天井を眺めていました。曖昧な天井、不安定な仕切り。この夜の空虚感は仕切りが無いからかもしれない。男たちは仕切りを壊して、そうして壊すだ け壊してから去っていくのです。
今宵、私はそうした仕切りを自分から壊すことにしました。死というものがなんであれ、もはや私に仕切りは必要ないのですから。死んだら粉になって、何者でもなくなって、空間の仕切りも肉体という仕切りもなくなって、空になるはずなのです。
「そろそろ片付けをしよう」。私は天井に提案をしました。
何をするにも準備は大変なものです。特に引っ越しの準備。まして別の地平に行く引っ越し準備です。大変でないはずもなく、万全の整頓にはほど遠く部屋はず いぶんと散らかっていました。それでも整理整頓をする必要があるでしょう、私の後に部屋きた人が困るでしょうから。大家さんや、お父さんやお母さん、もし かしたら彼も。最後のはどちらでもいいですが。生きるにもお金がかかりますが、死ぬにもお金がかかります。死んだ後も部屋の家賃を払うことになるだろう両 親やここを片付ける清掃業者のひと、それにクレジットカード会社への支払い。あるだけのお金は置いておき、やれるだけの整理はしておかねば。
まずは洗濯物を片付けます。洗濯すべき者は洗濯機に放り込み、あとは機械に任せます。そういえば干していた洗濯物を取り込んでいないのでした。窓にはハン ガーに掛かったままのシャツや下着があります。取り込むと部屋が散らかるから二日間放置しておりましたが、もし私がそうした仕打ちをされたらきっと悲しい わけで、私は申し訳なく思いました。ごめんね、いまからアイロンをかけてあげるよ。シャツに語りかけるとシャツは嬉しそうです。そんな気がします。
アイロンは面倒くさくて、普通はやらなかったのですが、今日は全て平等に、かつ丁寧にかけていきました。そうして気付くのですが、アイロンというのはとて もいいものです。全自動でなんでもやってくれる機械もいいですが、アイロンを自分の手でかけていくのは優しい気持ちになれました。しわになった布を一押し 一押し伸ばしていく、あたたかい蒸気を手に感じながら、心地よい重みで布がどんどん美しくまっすぐに伸びていく。しわを伸ばす作業をしながら、私の姿勢も いつの間にかまっすぐになっているのです。一回一回丁寧にアイロンを滑らせると、その通りに布が答えてくれる。会社の仕事は複雑で、自分が何をしているか もわからない作業をこなして、その結果が自分の知りもしないところでほんの少し見えたりまたは完全に濁流にのまれて見えなくなったりしていました。アイロ ンがけというのは、そういう意味でとてもシンプルでわかりやすく、何も複雑なことは考えずこうしたいと思った仕事がその通りの結果で帰ってくる事の単純な すばらしさを体感するのでした。それはアイロンだけではなく、家事全般に言えると思います。その場で必要なことがわかって、その場できちんきちんと仕事を 終えていく。家事は心に平衡をもたらすようでした。会社の仕事とは別の魅力にあふれていますね。
一通りの洗濯を済ますと掃除に取りかかることにします。いつもは掃除機をかけるだけですが今日はタンスから本棚まできれいにしなければなりません。はじめ に本棚から全ての本を取り出し、床に並べて参ります。ヨガの雑誌やファッション誌、女性誌にコミックなどが山積みになる中、文庫本がぽつんと出てきます。 『人間失格』。それは彼が置いていったものでした。
「いいから読んどけって。全然本なんか読まないんだろう。俺は意外と読書家なんだ。これはいい本だよ、お奨めさ」
相変わらず彼は快活でした。この本は快活に読む物なのでしょうか。
「どんな話なの」
「まぁ結論としては人生は喜劇だっていうことみたいだよ」
「ふぅん・・・」
結局この本は読んでいません。はじめの一文くらい読んで、やはりやめました。理由は彼が先に読んでいたからです。出だしは何だったでしょうか、思い出せません。
さて、積まれていく本を今度は段ボールの中に収納していきます。一冊一冊本の内容を思い出せるだけ反芻しながら丁寧に無駄なく詰めていくと、段ボールは二 箱で済みました。その上にメモを置き、「処分か寄付をしてください」と加えました。箱はもう少し要ると思ったけれど私はあまり読書をしていなかったようで す。実は自分では読書はまぁまぁ趣味だとおもっていましたが、世の中には膨大な本があるのに私が触れたのはほんの少しなのでした。もしかしたら濁流のよう に押し寄せる新規の出版物の中には私を救う本が有ったのかも知れませんが、およそそんな本と出会わなかったということも含めて私の運なのでしょうか。
本を片付け終わると洋服ダンスの整理に取りかかります。タンスから服を出して、段ボールに詰める作業です。普段着のケースまでは順調に整理を進められるの ですが、途中で久々に見かけた服との再会はなかなか道草を食ってしまいます。あら、これは前の彼と京都へ行くときに買ったスカートだ、こっちはお台場で デートをしたときに着ていったらほめて貰えたワンピース・・・お気に入りの服にはそれぞれ思い出がありました。いずれも今となっては無用の長物ですが、タ ンスに大事にしまい込まれたそれらにはひどく懐かしい匂いがして、記憶の海に漂うのは存外心地がよいのでした。
「そういえば、何を着ようか」
会社帰りの私服ですが、最後までこの服でいればいいのでしょうか。つまり「最後はきれいな格好をすべきか」ですが、私はあまり迷わずジャージを着ることに しました。最後まで雑誌に指定された服を着ないと死ぬこともできないなんて嫌でしょう。それに、最後の最後でかたづけられるこの部屋で一番やっかいな物 質、要するに私を誰かに片付けて頂くとき、ジャージの方が脱がせやすくて謙虚だと思うのです。
おおかた片付いてきましたが、忘れてはならないことがありました。パソコンのデータです。これらはたぶん死後に確認されたりすると思いますので、処分しておかねばなりませんが、ただ画面の操作でデータを消すだけではだめなのだそうです。
ハードディスクなどの記憶媒体には残っているそうで、物理的に壊す必要があるのでした。携帯電話を買い換えるとき、携帯ショップの店員さんがそう説明して古い携帯を破壊していたことからそれに気付きました。
あらかじめホームセンターで購入した金槌を取り出します。ずっしりと重く、鈍く光る鈍器はなかなか頼もしい。中途半端に叩いてはだめです。思い切り、全身 の力を込めて叩き割るのです。ハードディスクがどこにあるのかはわかりませんが、ノートパソコンですから画面部分以外を全て潰しておけば大丈夫でしょう。 右腕を高く掲げ、集中して狙いをつけます。そこでふと自分が緊張していることに気付きました。やるぞ、やってしまうぞと自分に言い聞かせているのです。思 えばこんな高価な物を惜しげもなく破壊するチャンスは有るはずもなく、そもそもそういう暴力的な機会がありませんからはじめての経験です。本当にやってい いのかしら、本当にやっていいのだ。胸が高鳴り、脈打ちます。
「このぉっ!」
―ガゴッ
振り下ろした鈍器の先から鈍い破砕音がしました。と同時に、ある種のエクスタシーが体に奔りました。これが禁忌を破って暴力で壊すということの蠱惑的な魅 力だというのでしょうか。その後も幾度となく金槌を振り下ろします。表面が陥没し、回路がむき出しになり、ねじがはじけ飛びディスクが割れて、全てが鈍い 音に破壊されていきます。私はハァハァと呼吸を乱し、そこで破壊作業を終えました。その呼吸の乱れが、男が私を抱くとき、殴るときと少し似ているような気 がして少し空恐ろしくなりました。
次に携帯電話を取り出します。携帯はまだ壊しません。私は消息不明扱いになるはずですが、留守番電話にメッセージを入れておけば腐敗する前に発見してもらえるからです。
私は留守番応答メッセージ録音ボタンを押しました。
『私は家にいます。部屋で発見してください。救急車は必要ありません。あなたが家族でない場合、家族へ連絡をお願いします。番号は・・・――』
それからノートをもってきて、メモを書きました。
「ご迷惑ばかりおかけしました。どうもお世話になりました。後悔はしておりません。それ以外に道はありませんでした。お葬式は不要です。ただ火葬をしていただければ満足です。皆さんが幸せでいられることを心より望んでいます。さようなら。」

一通りの片付けが済むと、窓を閉め、カーテンを閉じます。そのあと換気扇や部屋の隙間などを文字通り隈無く探し出し、すべてを密着度の高いテープでふさいでいきます。
「ここいらでひとやすみしよう」
一人暮らし特有の独り言をつぶやきながら、ホームセンターで買ってきたばかりの物品一式の中からビールを取り出しました。ホームセンターとはいえ食品は 扱っているものです。普段はビールなどのみませんが、というのも苦くておいしいと思わないからですが、今日はビールにしたいとおもったのです。
「あら・・・」
存外労働のあとのビールは大変においしいものでした。私はビールの味がわかるまでの本当の労働をしてこなかったのかもしれません。二本目のプルタブをあけると同時に、薬箱から拒食症の時に処方された不眠症用睡眠薬を取り出すと、流し込むように服用します。
「さてと・・・」
いずれ猛烈な眠気、昏睡に近い状態がやってきますから作業を進めなければいけません。部屋の扉にいくと、ドアノブを針金でぐるぐる巻きにします。無意識に でも部屋から出ようとする行動を阻止するためです。なんだかボクシングの漫画を思い出しました。ライバルの階級に合わせるため過酷な減量に挑んだ男は、ま ちがっても水を飲まないよう蛇口を封印してしまうのです。どんなに意志があっても本能が邪魔をするかもしれないという男の読みはあたり、減量を最後まで敢 行できたわけですが、そのせいで最後には死んでしまう。私の場合は手段は一緒ですが目的は真逆ですね。
「打つべし!打つべし!」
その漫画の男達をまねて、拳を突き出してみます。すでに薬とアルコールがコラボレーションで効いているのかもしれません。人間は不思議なものですね。いよ いよと言うときでもくだらないことをするんです。そういうときにこそ取り繕うことをやめ自然に振る舞うものなのでしょうか。
作業を急ぎましょう。最後の仕上げです。ホームセンターで購入した練炭と七輪を取り出し、セッティングをします。練炭は一酸化炭素をなるべく排出するよう 多く点火しなければなりません。まもなく私は昏睡してしまうから、途中で火が消えるなどと言うことが絶対にないように。もし自殺に失敗したらそれはひどい ことですよ。脳にダメージが残って後遺症になり、アパートは大騒ぎになり、そして明日の出勤時間にも間に合わない。無断で遅刻するなど、オフィスに入るの がいったいどれほど恥ずかしいことでしょうか。
想像をしているうちについに睡魔が到来しました。と、同時に、セッティングを終えた練炭に向けてチャッカマンを添えます。そして引き金を引きました。カチリという音と同時に金属棒先で火がともります。
―その時でした。
音がしました。電子音です。私は突然の出来事に、もうろうとした頭で混乱をきたしました。携帯電話が鳴り響いたのです。こんな時に。誰から。何の用件で。なんで私。
思えばそれも当然あり得ることでした。部屋をふさいでも電波はどこまでも追いかけて進入してきます。だとしても電話に出なければいいのです。電源を切り直 すという作業だけでいいのです。それが、ぐにゃりと世界をゆがませるそのときの脳では理解できませんでした。私は、指の覚えている無意識の動作にしたがっ て携帯を触りました。知らない番号でした。
―あ、もしもし、もしもし・・・
うん、うん、きこえてるよ・・・
―突然恐れ入ります。こちら新橋医院のヤマオカと申します。本日の夕方の診断につきましてご連絡があり、お電話いたしました。大変申し訳ありません。実は あなたの診断について、看護婦の手違いで別の方の資料をお渡ししていることがわかりました。いまこのお電話口で結果を申し上げてもよろしいでしょうか。と いうのも、最終的には本日の回答とは逆の結果を申し上げねばならず、本来はこちらにきていただくことが必要ですがこちらのミスで再度来院いただくことも申 し訳なく、取り急ぎこのような対応をさせていただく次第で・・・
うん、じゃあ結果を教えて・・・
―あなたは妊娠しておられます。ついてはまず病院にお越しいただきこちらからお詫び説明を行いまして―
私は電話を切りました。もう話を聞いていることが出来そうもなく、なのに考えるべきことがたくさんあったからです、妊娠のことです、妊娠、私が妊娠、妊娠 というのは子供が生まれることで、子供が生まれるというのは体験したことがないことで、本当にそんな恐ろしいことが、超常的なことが私に起こると言うこと で、私がお母さんになると言うことで・・・子供というのはお父さんがいて、ならお父さんは誰、ああそう、相手は誰でしょう。


次の日

何というか、その日は人生最高の夕方でした。これまでに感じたことがないくらい、その日の目覚めは爽快なものでした。使用した睡眠薬の影響はほとんど残らず、心身ともに快調です。生まれたての小鳥の様に初々しく新鮮な気持ちが私の中にありました。
それもそのはずで、私のお腹の中には新しい命があるのです。その命が私の命をも新しく生まれ変わらせるのは何ら不思議ではありませんでした。
練炭は着火していませんでした。着火していたら私は今日目覚めることは無かったでしょう。夕日が差し込んでいますから、だいぶ長い時間昏睡していたようで す。いえ、もしかしたら少し着火していたのかもしれません。どことなく焦げたような息苦しいような臭いが空間にこもっています。しかし私には何の心配もあ りませんでした。当然です。当然の運命です。ここで私が死ぬはずがないのです。なぜなら私は母親であり、妻だからです。命を守る大いなる使命があるので す。私だけがこの命を守れるのです。
子供にもこのすばらしい運命をよく話してあげましょう、あなたは私の子供でとても大切なのよ、とても特別な子供なのよ、あなたはすばらしい人生を歩める わ。その日がとても待ち遠しい。早くおしゃべりができるようになって、そうして早く一緒にお出かけをしたい。母子セットのかわいらしい洋服を渋谷で買っ て、仲良くお茶をしたい。私は子供を愛し、子供は私を愛してくれることでしょう。本当に、待ち遠しい。
そういう平穏で満ち足りた優しい生活を送るためには、もちろん夫との協力が欠かせません。夫にはしっかりとしたお仕事をして頂き、お給料を稼いで頂きたい と思います。私は子育てという、他の誰にもできない大事な仕事がありますから、私たちを支えるような立派な仕事をして頂きたいわけですが、夫もこういう事 情を知ればいままで以上にリキをいれて営業に残業にがんばってくれることでしょう。勿論私は夫を給料配達人にする愚かな妻ではありませんから、一〇年ほど して子育てが一段落したら私自らパートをして週四日は外に出で差し上げるつもりです。子育ても仕事も両立する姿を子供にも見てもらいたいですから。子供の 教育すらできないそこらの恥ずべき母親たちとは違うのです。
さて、これから私は夫に会いに行かねばなりません。いろいろとお話しすることがあります。言うまでもなく、子供の父親は相手は決まっています。彼です。他 の男と最近寝たことがないわけじゃないし、彼とつきあっているときも他の男と寝たことがない訳じゃないけど、相手はわかるのです、なぜなら私がオンナで、 そして母親だからです。彼以外に妊娠するはずがないのです。だって私は彼を愛し、彼は私を愛していたのだから当然です。・・・ああ!なんていうことでしょ うか。お母さん。口にするだけで意識が溶けていくようです。なんとすばらしい響きでしょうか。お母さん、お母さん、お母さん・・・私がお母さん。いま、よ うやくわかりました。私は全然恥ずかしくなどなかった。それどころか、とても立派でほめられるべき人間ではありませんか。だって子供を産むのですよ。子供 が作れるのです。私の子供です。私が生んで育てるのです。これが女子大生やそれに近いOL達に、女子高生に、男達に出来ることでしょうか。誰にも出来ませ ん。ましてあの係長女などにはできるはずもない。私には子供が生まれ、あの女にはいない。これだけの事実でもはや何も説明はいらないでしょう。かたや愛の 結晶を孕み、かたや仕事しかできない女係長。何も説明はいりません。私だけが私の子供を愛し育めるのです。それを仕事として、使命として尽くすのです。そ れに比べて、ビジネスなんて称してただあくせく自己満足で働いているだけの男達が、合コンに明け暮れて非生産的でエゴイスティックな「自分磨き」にあけく れるだけの女達の、なんて恥ずかしいことでしょう。私はそうではありません。全然違うのです。
彼にこのことを伝えたとき、はどれほど喜ぶでしょうか、想像もつきません。最初は驚くでしょうが、やがて落ち着き、私たちの愛の深さを知るでしょう。そし て言うでしょう、これから一緒に生きていこう。そうです、私は生きるのです。これまでの恥ずべき人間から生まれ変わって、母親として。
扉を開こうとするとドアノブが回りませんでした。そうだ、針金で何重にも巻き付けて封印しているのでした。時間をかければこれを解くこともできますが、早く彼に会いたくて待ち遠しいので別の方法をとることにします。窓を割るのです。シンプルな解法が正解なのです。
大破したパソコンのそばに落ちている金槌をもってくると、窓の前で思い切り振り下ろしました。甲高く無機質な音とともにガラスが砕け散りました。透明に輝 くガラスの破片は、燃えさかる紅と濃厚な闇が解け合った夕日を乱反射して、眼球に染みこむような深い赤が狂ったように踊っているようでした。
人一人が通れるくらいの穴が開くと、なんとかそこをくぐり抜け、ベランダから地面に着地します。一階でよかった。少々肌をガラスで切ったようで流血してい ました。額からつうと一筋の赤い血液が流れて、口の中へ入ってきます。舌に暖かく、鉄サビの味がゆるりと広がりましたが、かまっている暇はありません。早 く彼の家に行かねばなりませんから。
歩き出そうとしたとき、そこではたと気がつきました。
「しまったわ、・・・私ったら、恥ずかしい。何をやってるのかしら」
ふと冷静になると、自分が大変におかしな事をしていることに気付いてしまいました。
金槌を一緒に持ってきてしまいました。仕方がない、このまま持って行くことにしましょう。ではペンを持つのはここまでにします。

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