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自分の内面を「形」にする ---投稿雑誌『Inside Out』ブログ since 2007/11/15
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プロフィール
HN:
川端康史
年齢:
33
性別:
男性
誕生日:
1984/06/29
自己紹介:
『Inside Out』代表の川端です。
自分の内面を「形」にする。
こういった理念を持った雑誌である以上、私にも表現する義務があると思っています。
ここはその一つの「形」です。かといって、私だけがここに書き込むわけではありません。スタッフはもちろん作者の方も書き込める、一つの「場」になればと思っています。
初めての方も、気軽にコメントなど頂ければと思います。

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もう仕事はじまっちゃったよ・・・川端です。
まだぎりぎり休みボケになっていなかったので、
それが救いでもあり、もっと休みたくもあり・・・

ま、仕事しますかw



みなさんは年末年始どうお過ごしでしたでしょうか??
僕は柄にもなく外出ばかりしてました。
例年だと引きこもって漫画にゲーム三昧だったのに。
大人になるって、こういうこと?

ゲームは『FF3 と『FF10 とうみねこのなく頃にを買いました。

でも今やってるのはFF3です。
やったことなかっただけに、新鮮。
FFって、こういうのだったんだよね。
宝箱を取り忘れたりするのが悔しくて、
攻略サイトから目が離せません。

うみねこは、今はアウトブリードで手一杯なので
ちょっと寝かせておいて、落ち着いたらやります。
多分、今週末の三連休あたりでしょうかね。
どんな展開になっているか、楽しみです。



そう、アウトブリード。
さっそく買ってくださった方、ありがとうございます!
まだ読んでいる途中ですが、思ったことがあったので書いてみます。

理性だけが満足する説明は現実の説明とはなっていない
(第4章の1節「「わたしらは名も知られず、後の世の人に歌いつがれることもなかったであろうし……。」」から抜粋)

「二十世紀になって文学は言葉の不透明さに囚われすぎてきた。言葉を再び透明なレンズに戻そうとする必要がある。言葉が宇宙なのだという考えはもうつまらない。レンズの精度をあげることを放棄して、手元のレンズがいかに透明度が低く、歪んでいて、物を精密に写さないか、というようなことばかりしゃべって通用するのはきっと文学だけで、これは科学からみればあまりに非常識だろう。」
(第3章の1節「「リトルネロについて」に接ぎ木する」から抜粋)

どちらも保坂氏自身の言葉です。

前者はカフカを引き合いにだして、彼が論理に囚われすぎて、「内実」とでも呼ぶべきものを文章から欠けさせてしまったという話のくだり。論理だけでは、現実を描写できない、と。
後者はそのまま、文学でこれから言葉をどう使っていけばいいか、というような話になっていて、
曰く、ひとつの方法としてはもっと精度を上げて、きちんと物事を記述しようじゃないか、と。
ぼかして書くのが文学、って時代はもう古い、と。

しかし、この2つの文章は矛盾しているように思います。
後者の「透明なレンズに戻す」「レンズの精度をあげる」ことというのは、つまり、
論理的に物事を分析して、それを記述しようということなのではないでしょうか?
つまり、カフカの二の轍を踏めと・・・

……

「ビックバン直後の”時―空がまだない状態”をいまは記述できないし、宇宙の果ても記述できないというようなことが、深刻な問題として感じられる時代が近代であり、古代のように「それはカオスだ」の一言ではすまないのだ。」
(同 第3章の1節「「リトルネロについて」に接ぎ木する」から抜粋)

ビックバン直後や宇宙の果ては、記述できるとすれば、
それはいずれ科学という名の論理を用いて記述されるものだと思います。
しかし、そんなものを記述することが、果たして文学でしょうか?
文学が本当に記述しなければいけないのは、
その作者の内面だと僕は思います。

作者の内面にあるものを、正確に、記述する。現実の説明として。
そのための方法の一つとしてなら、
レンズをぴかぴかに磨き上げる必要がある。
外のものを正確に記述する必要があるのは、
文学よりもジャーナリズムであるべきです。

内面を、より、正確に。
それには、論理では、足りない。



長くなりました。書くのに実に1時間かかったwww
たまにはいいかな・・・?



保坂氏は、「「リトルネロについて」に接ぎ木する」において、
文学の記述の可能性を「回復と民衆の問題」と重ねて考えています。
多分、僕の先に言ったこととは全く別の可能性を彼は考えているのだと思いますが、
しかし、僕は『千のプラトー』を読んでいないので、いまいちこの節が理解できません。
(「リトルネロについて」は『千のプラトー』の1節)

誰か、読んだことがある人!!解説してくれーーーー!!!
吉澤くーーーーん!!
それでは、また。
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