こんにちは、吉澤直晃です。
広いからか綺麗だからか実家の庭へ黒猫が遊びに来る。だいたいは木登りをしたり、水の溜まる石製のオブジェ(なんて言うのか知らない)へ喉を潤しに来たり、喉を潤しに来た鳥たちを狩りに来るのだけれど、塀の上や玄関先で寝そべっているのを見るとなんだかうちで飼っているみたいに思えてくるから不思議だ。畜生類の嫌いな祖父母は見かけると威嚇するものの効果は皆無のようで、猫は結局たぶんうちの庭をナワバリ認定したと思う。
伝え聞く限りのふてぶてしい態度からいわゆる嫌われやすい猫にありがちなデブ・敵対的な声・根暗な目つきを想像していたのだが、実際に見ると割に細めしなやかで声は聞いていないけれど目もくりっと愛らしく、相当にかわいい(といっても僕には犬とか猫に憧れがあるのでデブとかでもかわいいと思うような気もする)。
祖父母があんな態度だし餌もやらないしで懐くはずがない、というか僕のことは老人より俊敏な敵と判断してくれているのか警戒の度合い強くすぐに逃げる。早いし速い。それでも最近は「そっから近づいたら逃げっからね」ラインのようなものがつかめてきてそのギリギリにて見つめあったりしてやっぱりかわいい。なんとまあコクのある黒だ。
そのかわいさといったら人より勝っていて日々の憂さなど簡単に吹き飛んでしまうのだけれど猫には僕の憂さなんてどうでもよく、むしろうさぎの方がいいとか駄洒落を思ったところで、猫とうさぎ両方飼っている知り合いの家ではうさぎの方が強いことを思い出した。マロンというそのうさ様は恰幅すさまじく性質凶暴で、気に入らない物体を見るとすぐさま体当たりで吹っ飛ばしにかかるものだから猫はおびえて近寄りもしない。それで、もちろんマロンの場合は例外というか力関係は様々なんだろうなあ、とか書きながら思っていて何の話をしていたのか忘れ、思い出した。猫の僕に対するどうでもよさがすごくいいという話で、仲良くなろうとかその逆とかの意志または意図を浮かばせず、その辺は人ならば難しいもののような気がする。
ただそこにいるから見て、近づくようなら逃げるしそうでないなら見つめる、という行為自体は人にもあるのだが、なんというか、そこには関係を継続させるための意志または意図のような努力あるいは気持ちがべっとりと必要になってくる。この間、この話、この目線、が、何を意味するのか、という型があって、それを意識するともう乗らざるを得なくなり、最終的に関係が何か名詞的な既存のものに落ち着かなければいけない気がしてくる。
人は人と関係を結んでいるのか、と思う。それならば全ての時間は再生可能なわけで、反復のできる出来事など少なくとも僕は魅力を感じない。素敵な時間が素敵な故はそれがもう二度とやってこないからだ。永劫回帰があるとして、その回帰にて新しく体験されるまではずっと再構築することはできないからこそ良い体験は良いのだと思う。経験上、最高だった同じメンバーで集まればまた最高なんてのは思い込みだし、結局一回目の最高だった時を磨耗して食いつないでいるだけである気がする。人は場と関係を結んでいるのではないか。一回こっきりの場と。楽しかった時はそれとして一回リセットして、また最高な時を、前の最高の時をモデルとせず別な形で構成される(かもしれない)ような場、を、人をではなく、僕は欲している、のだが、甲斐性もカリスマ性もないので実家に引きこもっていますよ、という話、を、毎回やってきては僕と見つめ合ってくれるものの何も通じていない黒猫を見ていて考え付いた、という話をするのはだいたいにおいて執筆時の逃避です。
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