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自分の内面を「形」にする ---投稿雑誌『Inside Out』ブログ since 2007/11/15
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プロフィール
HN:
川端康史
年齢:
39
性別:
男性
誕生日:
1984/06/29
自己紹介:
『Inside Out』代表の川端です。
自分の内面を「形」にする。
こういった理念を持った雑誌である以上、私にも表現する義務があると思っています。
ここはその一つの「形」です。かといって、私だけがここに書き込むわけではありません。スタッフはもちろん作者の方も書き込める、一つの「場」になればと思っています。
初めての方も、気軽にコメントなど頂ければと思います。

mixi:kawattyan and Inside Outコミュニティー
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Inside Out vol.5 Web連動企画!!

私はずいぶん恥ずかしくない
縞尾 喪関

Inside Out本誌の続きはこちらです!
(PDF版はこちら)


その日の朝

日記と手記の違いは何でしょうか。どちらでもいいのですが、たぶん私が記すものは手記でしょう。手記というものを書くのは人生で初めてです。それだけ私は物を書くという必然性のない人生を送ってきた証拠といえましょうか。
さて、何と言えばいいのか、とにかくその日は人生最高の朝でした。
押し寄せる細波のような寝起きの気怠さは無く、まるで日の出とともに目覚める草原の獣のように、時をしっかりと感じ取って起床しました。
朝の陽光がレースのカーテン越しに降り注ぎ、世界をまばゆい薄金色に染めています。朝露をかすかに含んだ風は優しく、小鳥のさえずりが今日という日を祝福しているようでした。夏の早朝ほど気持ちのいい時間がおよそ存在するのでしょうか。
両腕を掲げて大きくのびをすると筋肉がほぐれ、細胞という細胞が活性化してきます。
「そうだ、久々に味噌汁と焼き魚をたべよう」
一人暮らしの私はよく独り言をいいます。誰にともなく、強いて言えば窓の外の小鳥たちにむかって提案してみました。口にしてみるとそれは大変すばらしいアイデアであることが実感できます。ええ、それは大変結構な案です。香ばしく焼けた一切れの鮭、だしのきいた暖かいナメコと豆腐の味噌汁、それによくかき混ぜた納豆も付けよう。想像するだけでお腹がぐぅっと鳴ってしまいそうです。
朝ご飯をそのようにきちんと作るのは一年ぶりくらいでしょうか。気分的には一〇年くらい作っていないようです。ほとんどがシリアル類か、または食べないか。そんなことより朝は化粧に着替えにととにかく忙しくてげんなりする。とても朝食にかまっているほどではないのです。何かの雑誌で、朝の一〇分には一〇〇〇円払ってもいいと思うOLはかなり多いと書いてありました。私もそう思います。ですがもし本当に時の神さま、たとえばクロノスがやってきて、『やぁ、君、僕は神様だ。君は困ってるようだから一〇分一〇〇〇円で売ってあげてもよいぞよ』なんてのたまうのであれば、私は絶対に相手をしないでしょう。一〇分一〇〇〇円とはマッサージかキャバクラかの値段ではありませんか。そうだとすれば、朝の一〇分に一〇〇〇円払ってでもより優れたメイクをしていかねばならないOLという存在のなんとばかばかしいことか。
それに引き替え、ほんの少し早起きをして、ほかほかと湯気のたつ飴色に清んだ白米をしっかりと食することがどれだけすばらしいことかは、もはや考えるまでもないわけです。
「もう少し早く気がつけばよかった」
私はやはり小鳥に向かってつぶやきました。朝日の輝き、空の青さ、朝ご飯を楽しむ気持ち。そして一人暮らしの私の周りにはたくさんの鳥たちが歌をさえずっていたと言うこと。今となっては遅きに失したところでしょうか。
何せ私は今日、死ぬのですから。
今日という最期の日を、私は手記にしてみようと思うのです。



*



その日の通勤

満員電車というものはこう比喩されるそうです。通勤地獄。なるほど、地獄という表現は得てして妙というところでしょう。ここは確かに地獄といえなくもない場ですから。いえ、もちろん私は地獄なんて行ったことはありません。これから行くこともないでしょう。にもかかわらずやはり満員電車は地獄なのです。すなわちそれは殺意の応酬を行う場所だからです。伝えられるところによると地獄とは罪人同士が互いに殺し合ったり、餓鬼が空腹にのたうち回ったりするところだそうで。満員電車はそれに当てはまるはずです。日々の糧を得るための鬱病やストレス障害を抱えつつ、中には自殺までしながら勤務先にしがみつき通勤する餓鬼は、毎日のようににらみ合い、罵りあい、場合によっては殴り合いの争いを起こしていました。首都圏で駅員をしていればそうした争いを見ない日のほうが珍しいのではないでしょうか。表面化した争いは所詮氷山の一角で、水面下ではたぎるマグマのように殺意が飛び交っているのです。そうした争いの理由は至って簡単で、誰かに足を踏まれたとか、誰それの息が臭いとか、誰それの肌が密着して気持ちが悪いとか、電車が揺れた際に肘をぶつけられたとか、そんなものです。そんなもので人間は人間を殺したいと思うのです。殺したい。その感情はごくささやかな理由で充分なのでしょうか。そうではない、と大半の人が答えるはずです。そう答えなければならないようになっているのですから。しかし地獄は違います。罵りあい、憎みあい、殺しあいを誰もが行うのです。どんな善人も黒い感情がわき出す場所。それがここです。
恋人の前や職場の前で善人であった彼も、山手線で駅員に強引車両に押し込められたとき、やはり地獄の住人になりました。隣の会社員とおぼわしき中年男性にくってかかった時の表情を私は忘れられません。口元がゆがみ目は見開かれたまま刺すような視線でにらんでいます。
おまえ、俺の足踏んだだろ。謝れよ。何だよその目は。自分が悪くねぇとでもおもってるのか。謝れよおい。
彼の目は病んでいました。その目を見て私は思います。彼は私にもこれからこういう目をするのだろうか。私はこの目で詰め寄られ、視線に毒されるのだろうか。
「いや、俺も大人げなかったな」
下車後、彼はいつものように快活でした。オフィスにくるときも出て行くときも、いつでも彼は快活なのです。
「でもあのおっちゃんもなかなかあやまらないないだろ。それに満員電車って誰だっていらいらするのはしようがない。東京の人口密度をネズミの住処で再現すると、共食いが始まるんだ。そんな東京でもひときわ密度が高い電車の中でああいうことが起こるとな、そりゃしょうがない」
共食い。人間はネズミではありません。彼もネズミではありません。人間の共食いとはいったいなんでしょうか。満員電車の中で沸騰する殺意は、ただの殺意ではなく、もっと本能的な何かの現れなのでしょうか。
それからほどなく私と彼は離別しました。それもしようがない事なのでしょう。けれどそれはまた別の話です。何にせよ満員電車という地獄で、人間は人間の本性を見つけるようにおもわれます。釈迦は天国も地獄も自分の中にあるといいました。まさしく自分の中の地獄を集団ノイローゼのように共有するのです。
そんな満員電車も、本日で最後となりました。今にして思うと、少々寂しいようです。いえ、寂しいのではなく、切ない。もしかすると私はここが好きだったのかもしれません。満員電車にある種の安心を求めることもできました。地獄の中ではみな等しく餓鬼です。すなわち私という何かである必要がない。一〇分のために一〇〇〇円を支払わなくていいのです。そうであるなら、私が死んで裁判に合い、閻魔大王だか夜魔王だか父なる神だかに「自殺は大罪」などと宣言され地獄に落とされたとしても、案外天国よりも合っているかもしれません。
私は想像をめぐらせました。おまえは地獄行きだ、私は漆黒の底なし穴に突き落とされ助けを乞うが誰も手をさしのべたりしない、どんどんと闇の中へ墜ちてゆき、どしんと尻餅をつく、ああいたい、ここはどこかしら、あたりを見回してみるとそこはJR新宿駅の山手線電車のなかで、しかも人身事故がおこり電車はストップ、窓も開かず人と人とがぎゅうぎゅうに詰められ呼吸もままならない、呼吸をすれば老人の加齢臭や、けばけばしいホステスの香水臭、おじさんの汗と油の臭いが容赦なく襲い来る・・・なるほど、地獄というのはなかなか大変です。しかし天国にいってまで私をやりつづけろというのであれば私は地獄へ行くでしょう。そんな途方もなく恥ずかしい行為はもはや地獄の罰のようなものです。
もちろん、好き好んで地獄に行きたいわけではありません。一番いいのは「無」です。自我なく煙のように虚空に消えていくこと。それが一番です。おそらく死とはそういうものでしょう。少なくとも自分の死はそうです。死の経験など誰もないわけですが、順当に考えれば死とはそういうものだと予測できます。釈迦の言葉を反対に解釈すれば、天国も地獄も心の中にしかないというわけですから。死んだら脳が無くなるのですから心もなく、なら生者にしか地獄はないのです。
電車が代々木駅にたどり着こうというそのとき、若い女の叫び声がしました。キャア、と黄色い悲鳴です。黄色く着色されている悲鳴です。
「この人痴漢です!」
女は大学生のような、会社員のような、どちらともとれる風貌です。かくいう私もそういう風貌だと思われますが、逆に昨今いかにも制服OL風の若い女を捜す方がむずかしいのではないかと思いますね。大学に入ろうと就職しようと女は何歳になってもオンナでいなければいけないんですから。
「痴漢って、おいおい、ちょっとまってくれよ」
女に指をさされたおじさんが慌てて周囲を見渡します。ちっとも心当たりがないという様子です。ちっとも心当たりがないように振る舞う様子にも見えます。ひそひそと周囲がささやき始めました。
「しらばっくれないでよ、いま私のお尻をさわってたじゃない」「さわってない」「さわってた」「証拠でもあるのか」「は、意味わかんないし」「だから証拠だ、手をつかんだわけでもなしこの満員で何でわかるんだ」「だってさわってたじゃない!」
代々木駅に着きました。乗客たちがちらりちらりとそのやりとりを見ながらも降車していきます。みな仕事があるのです。痴漢犯(便宜的に)のおじさんも例外ではなく、次の駅で俺は降りると宣言します。
「まってよ、あんた絶対許さないから。でるとこでるからね。私も次の駅で降りて駅員に通報する」
かくして二人は同じ駅で降りていきました。二人の女子高生が小声で会話をしています。あの女の人かわいそうだよね、ってかあのオヤジ最悪、証拠とかいってさぁ、まじありえない。ねーこわいよね。
『どこがかわいそう?』
心の中で静かに、梟が夜を眺めるように言いました。実に恥ずかしいことだと思いますので。そう、実に恥ずかしいことです。二七歳という年齢にもなりますと、過去何度か痴漢に遭遇した女たちの話を聞かされます。どうしてでしょうか。同僚とか友人とかと話すにはぎりぎりエキサイティングでぎりぎりセーフの話題でおもしろいからかもしれません。
昔雑誌で見ましたが、女性の痴漢遭遇立というのは七割を超えているということです。自称では。それほど痴漢に遭うのが女なのですね。ああ、そうすると痴漢に遭わない残りの三割はいったい何者でしょうか。オンナではない?
実は私は痴漢に遭ったことがありません。お恥ずかしい限りです。
高校生の頃の記憶がよみがえります。ある友人の少女がつらそうにうつむきながら、私たちのグループにだけ相談したいことがあるとつぶやきました。
「あのね・・・あたし、今日痴漢にあっちゃったの」
するとグループはなぐさめ、私も優しい言葉をかけ、そして彼女は嗚咽を始めました。だれかが言います。
「実はあたしもあったことがあるの。でもいつまでもつらい気持ちだと自分が損だから。一緒にのりこえよっ!」
痴漢にあったのは、しかし二人だけではありません。実は私も、実は私も。おそるおそる手を挙げます。はい、私も名乗りました。
「本当につらいよね、オヤジってマジ、チョベリバ・・・」
私が痴漢に遭ったのかというと、電車の中で二〇代くらいの学生風の男の手がふとももにあたった事があります。満員電車です。もしかしたら触れただけでは?いえ、さわった、そうにに違いない。手をずっと上げ続けるとか、私に対してさわる可能性があるならそういう配慮ができたはず。それをしなかったというのは、何というのでしょうか、未必の故意でしょうか、そういうものがあっておかしくない。未必の故意は故意の一種で、だから故意の痴漢に違いない―
「アキもユウコもヒトミもみんなかわいいもんね」
「ええ、ユイもかわいいよぉ」「そんなことないよぉ」
次には、少女たちの話題は「誰それはかわいいのに彼氏がいなくてもったいない」という風に移り変わっていました。
どうしていま、そんな記憶が思い起こされたのでしょうか。ずっと忘れていたのに。消える瞬間の蝋燭の炎が一瞬輝きを放つように、最期を前に私の記憶は活性化しているということでしょうか。はたまた、いまこの時間の全てが人間が最期に見るという走馬燈の状態なのでしょうか。何にせよ、いま、そうした自分の言動を恥じています。恥ずべきことです、友人たちとの会話も、痴漢に遭わなければ友達の輪に入れない自分も。いえ、その本質にあるのはもっと爛れた何かだとおもいます。痴漢にあったことを主張して、私は何を望んでいたのでしょう。自分は痴漢に遭う七割に入っている。悲劇の共有。トラウマに乗って、もっともらしく人生の脚本を描く。被害者という絶対的優位に酔う。自分の魅力が男をひきつけるという事実をかみしめる。全て等しく爛れた自己です。そうまでして私は自己を作りたかったのでしょうか。
「ふざけるな!俺は会社にいくんだよ」
「何よ、絶対逃がさないからね」
痴漢犯(便宜的に)のおじさんはまもなく逮捕されるでしょう。証拠が無くとも証人がいれば逮捕され得ます。逮捕すればもう有罪にならなくても社会生活はぼろぼろです。会社から、妻から、どんな目で見られるでしょう。拘束され二日も会社を休めばもういかに事情を説明しようと「警察に捕まった」という事実だけが一人歩きします。
一方、被害者(便宜的に)の女は彼氏に泣きながらぽつりぽつりと話すでしょう。または同僚の女友達に陰鬱と話し、しばらくは愛情を与えられるはずです。彼女に優しくしないなんて人でなしですね。ああ、してみると人というのはなんと恥ずかしい生き物か。その女は、つまり私は、とても恥ずかしい存在です。
ところで、私の女子校の友人グループは五人いました、アキでもユウコでもヒトミでもユイでもない五人目です。その彼女ですが、その会話では話題に入ってこずだまっていたり、時折頷いたりしておりましたが、半年後に拒食症になり一年後に手首を切って自殺しました。原因はレイプだということです。詳しいことはわかりません。友人づてで伝わっただけですので。彼女がいつレイプされたのかはわかりません。でも、私はその会話をしていたときには既にレイプされていたと思っています。会話に入ってこない、それはあの年頃においては致命的な事です。致命的な事が彼女に起こっていたのでしょう。レイプという事象がどれほどなのかはわかりませんが、彼女には致命的だったわけです。およそ本当につらいこと、悲しいこと、恥ずべき事は誰にも話さないのです。
「じゃあ罰ゲームは自分の恥ずかしいことをカミングアウトな!」
学生時代、サークルの友人たちとコンパでのことです。罰ゲームになった男はこう告白しました。
「実は俺、慶応大学目指して仮面浪人してましたぁ!」
おそらくそれは本当に恥ずかしいことではないのです。恥ずかしいことを本当に告白したいなら、女子大生は化粧をしていない、又はプチ整形前の小学校の頃の写真を持ってくればいいし、男子学生は昨夜のオナニーのおかずを誰にするかを一言伝えればいいのです。かくいう私も自慰をします。一日に一回くらいでしょうか。女という生き物でここまでオナニーをするのは私だけでしょうか。何せ本当に恥ずかしいことは話さないのですから情報がありません。雑誌などの情報はだめです。読む側に興奮をあたえるよう構成されているのです。女もみんなオナニーをすると書かれているけど、私の友人たちは誰もオナニーをしないそうで、私はなんと淫乱な恥ずべき女かと嘆きたくなります。
「杉山一個上だったんかぁ、でも俺も浪人してたぜ」
「ひょー、だせぇ!男ならうちの大学一本だろ!」「えー、杉山君、やっぱり頭よかったんだね、だから一浪してたんだぁ」
ほどなくして自分がどこの大学を受けどういう結果だったかの会話になります。
杉山君はよくコンパというものを、いえ大学生活というものをわかっていたように今にして思います。仮面浪人と言うことは大学に一年在籍して学生生活を体験したわけで、その実績なのかもしれません。サークルではそのとき一年生扱いですが、彼は大学生としては経験者だったと。
それにしてもどこまで本気で慶応という難関大学を目指していたのか、目指せるレベルだったのか疑わしいところです。仮面浪人というスタンスをとりつつ、勉強などせず学生を楽しむ事だってできるのですからね。
彼に対してそういう疑いをかけられるのは、やはり私が同じ手法で箔をつけようとしたからでした。うまくやれる人間はすなわち小賢しく、小賢しさはまさしく人間として卑しく、いわば恥の塊のようです。
「私は国立A大学を受けて落ちてこの豊麗大学にきたけど、本当は豊麗がよくて国立は好きじゃなかった、ただ親が受けろと言い担任も学力がふさわしいからといって奨められたから受けたの」
これが私の学生時代を通してのスタンスでした。就職活動が始まる頃には受験の話題は落ち着きましたが、その後も同様の手法で就職受験に関する他者からの評価を何とか無難かつ恥ずかしくないような言い分で乗り越えてきたのです。

もうおわかりかと思います。さんざん他者のことを恥ずかしいと表してきた私が一番恥ずかしいのです。他の誰が知らなくとも、私が知っている。私が死ぬほど恥ずかしい人間であると言うことを。生きていてはいけないほど、恥にまみれた存在だということを。
レイプされ気を病んで死んでいったあの友人は、私たちの痴漢話をどんな気持ちで窺っていたのでしょうか。いまとなっては彼女の顔もよく思い出せないのです。いったいどんな気持ちで死んでいったのでしょうか。
彼女の顔を私は思い出そう年、そこで私ははたと気づいたのです。
「そうだ、死のう」
どうしてこれほど単純な事に気づかなかったのか、私は自分の愚かさを呪うと同時に、やっと気づいた簡明な真理にまばゆい光を感じました。
「ああ、そうだ、そうすればよかった」
なんて簡単なことなのでしょう。ただ、死ぬ。それだけで全て解決するじゃない。今までさんざん「死ねばいいのに」とか「あーもう死にたい」なんて口をついて出てきたのに、どうしてか本気で死に思い当たらなかった。こういうのを盲点というのでしょうか。真理というのはいつもシンプルで美しく、そしてなかなか気づけないものなのだと数学の先生が言っているのを思い出しました。
シンプルな解法は美しく、美しい式はたいてい正解だ、そうじゃない式はたいてい間違っている。先生の持論でした。ならば、私の解法は最高にシンプルで、美しい正解です。もう恥の上塗りをしなくて済む。恥を恥と気づかない人間をやめることができる。もう、恥ずかしくない。


その日の午前

出勤には何の意味もありません。何せ今日死ぬのですから。朝起きて出社して仕事をして帰って死ぬ。一日のリズムの中でそれとなく死のうということに何か深い理由を見いだしているわけではないのです。ただ心の底から死ぬんだということを覚悟したとき、もう今日を何か特別な日であるというふうにしなくていい、するべきじゃないと思えたのでした。もっといえば、死ぬという選択にことさらの覚悟すら持っていないのかもしれません。それはあまりに当然の選択であって、世間一般で死には覚悟が必要と言われているからそういう気持ちにならなければと暗示が働いているだけで、本当のところは空気を吸うように当然で意識にあがらないような事柄なのかもしれません。心境というのは他人様に分析されて自分の思考に像を結ぶもので、自分自身で把握理解することは難しいものです。
それにしてもやはり出社して仕事をして、おうちに帰って死ぬということにさしたる疑問はもてないことは、「死ぬ」という選択がごく当然の所作であるためだからではないでしょうか。
実際、その行動は正解でした。というのも出社した私はこの上なく仕事を楽しむことが出来たのです。
高層ビルのテナントであるオフィスに着くと、私は早速メールを確認します。一二〇件。一日でも休めばすぐこうです。どれが重要でないか全体を把握しながら業務内容ごとにメールフォルダへ振り分け、優先順位の高いものから処理していきます。実際にはCCとして送られているだけのものも多くすべてを処理する必要はありませんが、そうはいっても完全に見落としてたりすると会議の場で「メールは送ったはずだ」と既成事実として使われます。私はそれがいやでたまらなく、メールのチェックはいつもプレッシャーを受けますが、今日は一件一件丁寧な気持ちで当たることが出来ました。何せ今日でしまいなのです。『お世話になります』『ありがとうございました』、決まり文句一つ一つにその気持ちを持って文章を作成できることは心を快活にさせるものです。恥ずかしいことですが、私はそれをおっくうに思い、メモ帳に貼り付けたそれらの決まり文句をコピーペースとしてメールを作成しているだけでした。お世話になったかどうかなど関係なく『お世話になっております』と記載するのです。そこに私は何の罪悪感もありませんでした。およそ人間が持つべき誠意などもたず、切り取りと貼り付けの人間関係を形成していたのです。そしてそのことに気付くことなく、何も感じることなく生きていました。それが今日は、相手のことを考えて相手にあった内容で文書を作成しています。仕事を引き受けてくれてありがとう、報告をくれてありがとう、と。それだけのことができなかった自分を恥じます。
やがて昼休みになりました。周囲のOL達が誘い合ってランチに出て行きます。私はその輪からひっそりと抜け出し、一人で最後のランチをどうするか思案しながらエレベーターに向かって歩いていました。最後はあえてラーメンに一人で挑戦してみようか、それとも?食べると言うことはどうにもわくわくするものです。今日はカロリーを気にしなくていい。それはなんと自然ですばらしいことでしょう。同僚のOLは日々メモを取って計算をしていました。
「カロリーをメモするだけでいいんだよ。ぜんぜん特別なダイエットなんて必要ないの。すごくない?ほんとにダイエットしないで痩せるんだって!」
彼女は人気モデルを紹介しながらまだ痩せる前から誇らしげに語っています。他の同僚OL達も興味津々でした。曰く、記録することで食事制限に意識が高まり、間食が減っていつの間にか痩せるのだとか。彼女がダイエット方法を紹介するのはもう六回目でした。話があるたび、この前のダイエットはどうしたのといいたかったのです。それにデトックスは、アロマテラピーは、オイルマッサージは。
「でも菊池さんはぜんぜん太ってないしいいよねぇ」
これは決まり文句でした。
「そうかなー、まだまだだよ。理想のオンナ目指してがんばる」
それもまた決まり文句でした。
そして私が心の中でひっそりと痩せたってきれいにならないよ、と思うのも慣例だったといえます。私はダイエットが信じられなかったのです。彼氏に浮気をされ別れてから、比較的軽度の拒食症になりました。まったく何ものどを通らず、しかし夜中突然猛烈な空腹におそわれ、その分はその日のうちにすべてはき出してしまうのです。結果として私は九キロ痩せました。しかし全然きれいにはなりませんでした。
「最近痩せたよね、いいなぁ、どんな方法つかってるの」。ファッション誌の研究に余念がないある先輩OLに尋ねられた私はこう答えてみたのです。
「えっとぉ、秘密なんだけど・・・愛の力かな」
「ええ、何それー」
「詳しくはノーコメントでー」
先輩OLは他の女達も呼び集めきゃいきゃいと騒ぎ出しました。まるで女学生のようです。ああ、実に滑稽な話。愛の力だなんて!はい、嘘はついていない、愛情があったが故に私は拒食症になったのですから。どうして私がそんなことを言ったのかお知りになりたいでしょうか。・・・いずれ私が痩せたのは誰かに指摘されるのです。それにうまく答えなければ心労だとかなんだとか推測され、そして彼との件が暴露されるかもしれません。彼は会社の同僚なのです。女達の陰口にさらされ嘲笑されるのは絶対にあってはならない、もっとも恥ずべき状態ではありませんか。
それにしても私はちっともきれいになっていないのに、単に痩せたという事実だけで「いいなぁ」とは、ダイエットは本当に滑稽なのですね。痩せたってきれいになるかどうかはわからないのです。むしろ肌が荒れ骨が浮き出て骨格があらわになり、今まで以下になる可能性があるでありませんか。私の場合がそうなのですから。『理想のオンナ』。いったいそれはどんな理想なのでしょうか。痩せればそれになれるというのでしょうか。そうであれば痩せる努力をすればいいのに、彼女はどこか本気でないのです。理想を目指しているけど本当につらいのはだめ。その時点でオンナとして理想的ではないように感じておりました。
でも今日は違います。ランチに悩む彼女たちをみていると、しかしながら、それでいいではないかと思えるのです。痩せてもこれ以上は美しくならない。もうすでに人生の限界値にある。もしその事実を体感したとき、どこに逃げればいいというのでしょう。すでに彼女は理想体型に近く、劇的に美しくなることはないでしょう。自分がオンナとして限界である、ということは仕事、年収、ステイタス、はたまたたばこに風俗にギャンブルなどといった逃げ道を用意された男達とちがって世界の閉鎖のようなものではないですか。私もオンナとして二七年を生きてきました。ほとんど筋トレくらいにしか気を遣わない男達と違って、私たちはオンナであるために多大な努力を費やしています。金をかけ時間をかけ、髪を、爪を、肌を磨いているのです。仕草を学び、化粧をまなび、男を学んでいるのです。仕事の他、私たちは常にオンナであれという男達からの無言の圧力に耐え抜いているのです。男達はオンナばかりが優しくされることをよく思っていないかもしれません。しかし、優しくされるオンナになるという時点で私たちは長い道を歩んできたわけです。そこに少々の報酬を用意してもいいではありませんか?ですが、そういうオンナ達も永遠にその地位にいられるわけではなく、二〇代も後半になれば肌に髪に昔の無垢な輝きが宿らないことを理解してきます。少女が化粧を覚え、オンナの体を得て、顔すらも変わり美しくなる、自分がどこまでも上がっていけるあの若さがもはや存在しないことを自覚して、それでもなお、彼女も私もオンナであり続けようとし、雑誌は、雑誌の後ろにそびえる資本主義社会は、オンナであり続けることを強要してきます。だから「ダイエット」はやはり必要なのです。痩せればまだ上に行ける。そういう希望が。
きっとそういうことなのだ、と私は納得しています。かつてないほどに頭が清みわたり、青空のごとく快く、かつ冷静に同僚達を眺められます。口だけのダイエットに憤りを感じていましたが、けなげに社会に順応し、ささやかな希望を持って生きている彼女たちを誰が責められましょうか。むしろかわいらしく、そして涙ぐましい彼女たちをいとおしく思います。それよりも問題なのは私自身です。人の努力を笑い自分では何もしない、いえ、何もしないからこそ人の努力を笑うことでしか自分を守れないのかもしれません。このような人間が一番恥ずかしいのです。
エレベーターで降下中に一人の男が乗り込んできました。それは私の元彼氏でした。エレベーターは二人きりの密室になりました。しばしの無言。ほんの数秒にも数分にももっと長いようにも感じ、やがて彼の声によって終わりました。
「これからお昼か」彼はわかりきったことを尋ね、私は「うん、これから」とわかりきった答えを返します。
「今日の夜、ひま?」別れた男は快活に聞いてきます。彼はいつでも快活にふるまうのです。
「どうしてそんなことを聞くの」「いや、会いたいから・・・だめ?」
彼がこのようなことを尋ねてくるのは、初めてではありません。ええ、恥を承知で申しましょう。私は彼と別れました。でもいまだに絆を断ち切れていません。肉体関係という絆です。少し格好を付けました。有り体に言いましょう、セックスフレンドです。いえ、これも格好を付けていますね。正直にいいましょう、ダッチワイフというやつです。私は別段彼とのセックスを求めて体を重ねているわけではありません。彼の現在の彼女への憎しみとか、それでも一人よりはましというどうにもしがたい孤独を紛らわすためです。暖かい人肌に飢えてしまうのです。一人で生きていくのは寂しいではありませんか。理由も哲学もないのです。ただ一人は寂しい。それだけです。だから彼と一緒にいたいのです。
残念ながら彼の方の事情は異なります。彼はセックスをする相手が多くいても得にこそなれ損はしない。私は自慢ではありませんがおっぱいが大きいので、彼は私を求めます。おっぱいというのは男という生き物にとっていったい何なのでしょうか。大変な疑問です。おっぱいに詰まっているものはただの脂肪です。おっぱいには真理はつまっていません。夢はつまっていません。愛はつまっていません。彼がいくら私のおっぱいを愛してくれても、そこには何もないのです。失礼、話がそれてしまいました。どうもおっぱいが大きいことに起因する悩みを吐露すると男女双方に疎まれることが多かったもので、つい感情がこもってしまいます。ともかく彼という男は彼女がいてもそれとは別問題でセックスをし、多少の情が移ることはあってもあくまでも恋愛とは別問題として片を付けられるのです。そういう人間です。彼はとても快活で、明快です。いろいろなものが入り交じらないから快活なのでしょう。彼は私の体が目当てであって、私が彼に情をもつのであればそれなら肉体関係を続けようじゃないか、という一種の取引があったにすぎないと、考えていることでしょう。一方がセックスを求めず、一方のみが求める。それはもはやセックスフレンドではなく、求める側の生きた人間を使ったオナニーではないでしょうか。私はダッチワイフです。自動で動いてくれる、高品質なダッチワイフ。それは悲しいことでしょうか。哀れなことでしょうか。きっとそうでしょう。にもかかわらずセックスが始まってしまえばそれでもどうでもよくなります。それくらい人間の肌は温かく、とろけるように心地いい。ですが終わった後、夜に染まる部屋の中でうつろに視線を泳がせていると、ひどく虚しくなります。この空間に何もないことを悟るのです。そんなときは彼の彼女のことを思い浮かべます。いつ彼女に告げ口をしてやろうか、そのときあの子はどんな顔をするだろう。彼のことだから先手を打って何か対策をしているのかもしれない。じゃあどうしよう、写真を撮っておこうかはたまた――・・・なんとも私は惨めです。今すぐにでも恥じて死すべきオンナです。でも、すぐに死ななかったのはやはりよかったかもしれません。彼に会えたのですから。
「今日の夜は忙しいの。いろいろ片付けなきゃいけないから」
「じゃあ明日は」
「そうね、明日はひま。ぜんぜんやることはない。やらなきゃいけないこともないよ。でもきっとあなたとは会えない」
「どうして?俺のこと嫌い?」
「ううん、好きよ。でもあえない。一人で生きてくのは寂しいけど、生まれるときと死ぬときは別。そのときだけは一人が自然だもの、寂しくない」
「何の話をしてるんだ」
「なんでもない。それより彼女は元気?」
彼は一瞬目を見開いて驚きました。私の前で別の女の話をするのはタブーでしたが、それを私から破ったからです。
「あ、いや・・・元気だけど」
「それは何よりね」
エレベーターが地上に到着しました。彼は黙ってどこかへと歩いていきます。いまどんな顔をしているのかはわかりませんでしたが、私には彼がずいぶん小さくうつっておりました。
生きるのは寂しい、けれど死んだらもう寂しくない。死んだときまで彼を連れて行くことは出来るはずもなく、その自覚をしたとき私はもう自由でした。男に縛られることもなく生きることが出来た。それだけで、今日一日を過ごした甲斐があったものです。

もはや思い残すこともありません。死によって私は解放されたのです。死によって生きることが出来たのです。生きることに拘泥すれば死んだようになり、死ぬことを知れば生きることが出来る。本当に滑稽です。その滑稽な道化を演じ続けた私という存在の恥辱。それももうすぐ濯ぐことが出来るのです。


その日の昼

ランチは結局牛丼を食べることにしました。それも大手チェーン店の牛丼です。この国でもっとも安価なファストフードの「牛丼」です。
何も最後にそんなものを食べなくとも、というご意見が寄せられそうですが、本当に最後を覚悟して考えた結果がこれでした。およそ人は最後に食べたいものを聞かれたとき、何と答えるのでしょうか。刺身?ステーキ?たぶんそこで出てくる答えは、「今」か「近い将来」自分が食べたい最高級の料理ではないでしょうか。そこにあるのは、実は「未来がある」という前提での回答なのです。けれども、本当に最後を覚悟すると、その指向は過去へと向くように思います。最後のランチにして牛丼を選ばせた私の過去は彼との会話によります。
「なぁ、晩飯何にする」
「うーん、何だっていいよ」
「じゃあ、駅前の牛丼屋にしようぜ」
「それは嫌」
「何でもいいって言ったじゃん」
「何でもいいけど、でも狂牛病とか怖いし・・・」
何だってよくないのに、何だっていいと答えるのはいったいどういう了見でしょうか。たぶんこういうことだと思います。自分で考えるのは面倒くさい、そういうエスコートはオトコがするべきで、彼に考えてほしい、だから彼が私に気を遣ってくれるのであれば何だっていいのだけどいかにも適当に考えたような案は却下する。冷静に考えると大変恥ずかしい思考ですが、事実そういう心理だったはずです。
実際のところ彼が私との時間をどうでもいいと考えて適当に提案したのか、それとも本当に牛丼が食べたかったのかはわかりません。だから食べてみたかったのです。チェーン店で牛丼を食べるのは初めてですしね。
駅前の牛丼屋には端的に言えば自由がありました。いつ来てもやっているというのはもちろん、やってくる人も格好など気にせずがっつき、どういう順で食べるかのマナーも人それぞれです。メニューに悩まされることもないし店員さんに何かを奨められることもない。何より一人できてもなんら恥ずかしくなく、誰かと何かのうわさ話をしなくてすむ。楽です。とても。いまさら高級な肩肘の張った料理を食べるより、気楽に肩の力を抜いて日常的な物を食べて満足できる。最後のランチとしてそれは十分なものでした。
それに比べて今まではどうでしょうか。何々は何キロカロリーもあるから食べられない、ダイエット中だから昼はところてんだけ、野菜をとらなければならないから無理にでもサラダを注文しなければ・・・制約ばかりで食べたい物も食べれず、はたまた美容のために何かを強制的に食べねばならず、食事というのは楽しみと言うより義務の塊でした。そんなことはおかしい。絶対におかしい。食べることはもっと楽しくて基本的なことのはずなのに、自分に義務を課して達成して、別段美しくなってなどいないのにがんばった気になれるから、自己満足をしていたように思います。情けなく、恥ずかしいことですね。
ただ、それよりも遙かに情けないことがあります。それは同僚のOLに対する態度でした。ある同僚はオフィスの女達とうまくなじめず、いつも一人でランチをしていました。昼休みになると一人でどこかへ消えるのです。どこかで外食でもしているのかしら、でも彼女はお弁当を持っていたはずだからほかのオフィスの友達と食べているのかもしれない。・・・そう思っておりましたが、ある日彼女がどこで食事をしていたのかがわかりました。職場のトイレです。たまたま昼休み終了直前にそのトイレにいったとき、個室の扉から出てくる彼女を見かけたのでした。そそくさと出て行く彼女をいぶかしみながら個室に入ると、昼休みの終了に焦っていたのか、床にはこぼれたご飯の痕跡が。彼女はお弁当をトイレで食べていたのです。
なぜそんなことを、と不可思議に思っておりましたが、後に同僚との会話で明らかになりました。
「便所飯女って知ってる?」
「なにそれ」
「トイレで弁当を食べる女のことだよ」
「どうしてそんなことするの?変態か何か?」
「一緒に食べてくれる人がいないけど、友達がいないところをみられるのが恥ずかしいからトイレで隠れて食べるんだって。毎日外食するお金の余裕がないからってのもあるとおもうけど」
「えー、なんかそれ惨めだね」
「雑誌に載ってたんだけどね、便所飯女は百貨店とかのトイレが好きみたいと。きれいだからって」
「うわ、ますます惨め」
「でもほんとにそんなのあるのぉ」
知識をひけらかしたかったのか、話が盛り上がればいいと思ったのか、私はそこで自分の見たものをそのとき話してしまいました。
「あると思うよ。私身近にしってるかも」
私の話にキャハハと笑う彼女たち。私も同じように笑います。
ここは笑うところなのでしょうか。いまとなってようやく問題の本質が見えてきたような気がします。惨めで恥ずかしいのは私の方も同じです。だってそうでしょう、一人で食べるのが恥ずかしい「便所飯女」も、群れないとご飯すら食べられない私もどっちも同じなのですから。むしろ群れることでその問題から目を背け、恥に気づかず他者をおとしめる私の方がよほど惨めだったと言えます。それがやっと一人でランチをしているわけです。
「普通サイズで。あ、あとつゆだくで・・・」
「ハイ、つゆだく一丁!」
大学生くらいの店員の男の子が元気よく反応を返してくれると、私はいたずらをした小学生のように嬉しくなりました。一度やってみたかったのです、「つゆだくで」と頼むのを。なんだか常連みたいでしょう。話に聞いてはいましたが本当にできるのですね、つゆだく。
ほんの一分くらいで牛丼が運ばれると早速箸をつけます。
「おいしい」
存外おいしい物でした。ローコストなのに肉はしっかりと乗っております。温かいご飯につゆがからみ、お茶漬けのようにさらさらと流れ込みました。飴色にすんだタマネギと肉のうまみが調和し、舌と胃を満足させてくれました。
「ごちそうさまでした」
いつのまにか吸い込むように食べきっていました。これが、「食べる」と言うことでしょうか。もうずいぶんと忘れていたような行動に思います。女子大生をしていたくらいからでしょうか、一人で食べることは恥ずかしいことで、「食事」には友達との会話がメイン、その中で料理というのは手から口へ運ぶ対象なのでした。食べるということは人間のもっとも基本的な動作です。だとしたらそれを忘れていた私は、もうずっと死んでいたのかもしれません。死ぬことで、私はいま、生きております。


その2へ続く

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