今日は最近考えていることを書きます。
芸術とは何か?ということです。ちょっと重い話かもしれません。
芸術とは何か?
カンディンスキーという最初の抽象画家がいます。
私は彼の「ばら色のアクセント」という作品が好きです。
だからというわけでもないですが、彼を引用することにしましょう。
(ぶっちゃけた話、彼の著書しか読んだことがなry)
そのカンディンスキー。
彼が自著「抽象芸術論―芸術における精神的なもの」の中で言った言葉で、
「内的必然性」というものがあります。
芸術とは、その内的必然性によってのみなされるのだ、
大まかにですが、そういった文脈で使用されていました。
その内的必然性というのは、すなわち
感性と言われるものであったり、情念、意志・・・
などなど、様々に言い換えられる言葉ですが、
私はその存在を信じています。
作者の側からの話をしましょう。
もし、その存在が無かったら、作者は一体何によって作品を書くのでしょう?
どんなジャンルの作品であれ、まず自ら何かを表現したいという意志が原初的になければ、
作品は生まれないですし、その意志によって使役される感性がなければ
作品が出来上がることはないでしょう。無から有を生み出せるなら、もはや人間ではありませんしねw
逆に、受け手の側から見れば・・・?
それは、迷信に近いものなのかもしれません。
何によってこの作品が生み出されたのか・・・?
何かあるんだろう、でも、それが何かわからない。
・・・わからなくてもいいのかもしれませんが・・・。
さて、カンディンスキーは
内的必然性によって創られたものだけが芸術であると言いました。
ではその内的必然性以外のもの、とは一体なんでしょうか?
僕が思うに、
例えばそれは誰かに「こう書け!」と強制されたりですとか、
お金のために・・・ですとかそういうことなんだと思います。
そういった外部の要請(外的必然性)によって書かれたものは芸術ではない・・・
作者の側からすればそれは不純なものですから、
そう断じてしまうのも無理はないでしょうね。
自分の問題ですから。
でもまた一方で、作者が「これは芸術だ!」
と思っていても、それが受け手に認められなければ
それは芸術とは言えないと思います。社会的な認知として。
これも外的必然性の一つ(作者が芸術としてその作品を認知されたい場合)であり、
全ての外的必然性の排除は作者にとってとても危険な行為であると思います。
大事なのはそのバランス・・・
どこまで作者が自分の内的必然性に素直に、強情になれるか。
また、それによって外的必然性をどれだけ満たせるか。
きっとそういうことなんだろうなぁ・・・
まぁ、作者の中のことは作者にしか分かりませんし、
僕は表現者ではないですが^^;
この間来栖さんと芸術に関して話しました。
その時は聞き手の側にしか回れませんでしたが、僕は今こんなことを思います。
そして、その内的必然性の存在を、作品の中に認められる。
そんな人間でいたいなぁと思う次第です。
そういえば、
ヨUHEさんにシュールレアリスムの本を薦められていたなぁ・・・
読まねば・・・
ではまた。
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