土日にやったゲームとは、「ひぐらしのなく頃に 解」。
色々と話題性のあるゲームなので、ご存知の方も多いのではないでしょうか。
この作品もとは同人ゲームで、今巷にあるマンガやアニメ、映画などは
メディアミックスによって生み出された副産物になります。
さて、簡単に説明すると、ひぐらしはサウンドノベルゲームです。
「かまいたちの夜」や「弟切草」のように、基本的には小説を読み進めていくだけのゲームです。
そういったゲームの例にもれず、推理小説仕立てになっています。
途中選択肢もあるにはありますが、殆ど小説と言っていいほどの、少ない分岐しかありません。
読者は「問題編」と「解決編」をプレイし、最終的にある解を導きだすことを要求されます。
しかし問題は具体的には提示されず、読者自身で「何が問題なのか」を考える必要があるのです。
でなければ、「解決編」、つまり「ひぐらしのなく頃に 解」をプレイしても
ただ単にそうなんだ、と納得してしまうだけに留まります。
この「ひぐらし」をプレイして思ったことは、
エンターテイメントとして物凄くレベルが高いゲームであるということです。
まず構造的にかなり計算されています。
「問題編」「解決編」を通していくつかのエピソードがあるのですが、
そのどのエピソードが欠けても、最終的な解、そしてゲームを裏から支配する
大きな流れが見出せないようになっています。
また、それぞれのエピソードが魅力的です。
何がどうなって、今この主人公達がこんな惨劇に巻き込まれているのか?
ということがわからないまでも、主人公達の魅力によって読ませることに成功しています。
多分、プレイしたことの無い方にはなにがなにやらわからない説明になっているとは思いますが、
是非一度プレイしてみることをオススメします。
前置きが長くなりました。本題です。
ひぐらしをプレイして、この作品が問題であるといったような情報を流すメディアに、
多少違和感を覚えました。
確かに、猟奇的な表現や、殺人が当たり前に繰り返される物語が
人に与える影響というものを否定はできません。
しかし、そういった表現の後に、しっかりとそれを行動で否定していく、
否定しようと努力する主人公達。
ただ単に平和に暮らしたい、じゃあその平和って何?と自問し続けるあるキャラクター。
彼らが私達に教えてくれることは、当たり前だけどとても重要なことのように思われました。
ある側面からだけその作品を捉えてしまうことの恐ろしさ、
そしてその側面だけを捉えさせてしまうメディア。
もっともっと、その作品の本質を見せてもいいんじゃないかな・・・。
そんなことを考えています。
でも、現にそういった表現が及ぼす影響もやはりあるわけで・・・。
うーん、むずかしい。
やはり、個人のレベルで作品を判断できるようになるしかないのでしょうか。
それでは、また。
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