世に存在する書物は多いといえども有限でありますが、受容の仕方を考えれば感動の種類は数限りないといえましょう。そしてその感動をはっきりと口に出すのは難しいものの、自分がいつどのような状況で読んだのか思い浮かべれば、多少なりとも心に当時の潤いが蘇ってきます。
たとえばレイモン・ラディゲ。受験で東京へ連泊する際『肉体の悪魔』をホテルで寝る前に三十分ほど読むのが通例となっていました。結局その年は失敗しましたが、試験の不安や緊張を忘れさせてくれる(内容のせいで別な不安や緊張な状態に陥りましたが)ありがたい小説でした。そして次の年、今度は『ドルジュル伯の舞踏会』を同じように読んでおりました。落ちた反省を活かしていないといえばそれまでですね。ただ、そこには何らかの内的必然性が働いており、思い返すと満たされた心地になるのです。
たとえば小栗虫太郎。僕は小学校低学年のとき、はやみねかおるの著作が好きで、確か『魔女の隠れ里』(まちがっていたらごめんなさい)の中で『完全犯罪』を新たに読めるなんてうらやましい、といったような記述があったのが出会いです。中学生になってそれを思い出し、『完全犯罪』、学校の図書室で借りて読みました。他にもいくつか読んだ中で印象が強いのは、やはりというか、『黒死館殺人事件』です。これは高校二年生のときに仲の良かった先輩が古本屋で見つけてきたのを借りて読みました。持ち主より先に読んだのが悪かったのか返却が意想外に遅れたのが悪かったのか、寒い冬の昼休みに教室の外へ呼び出されて怒られたのも懐かしい思い出です。風邪をひきました。
高校二年生といえば、僕の敬愛する泉鏡花に初めて触れたのもまた、この学年でのことでした。新潮文庫で読むまで、名前から女性だと想像していたのは馬鹿らしいですが、初読の感想としては芳しくなく、むしろ嫌いなくらいでした。それが三島由紀夫の『文章読本』で鏡花への見方が変わり、日本文学全集か何かの(あいまい)選集で嵌まり、結局はちくま文庫の集成を買い揃える始末でございまして、とてもきれいな掌返しですね。集成にない作品もぜひ読んでみたいです。
鏡花の小説は異界がすぐそばにあって、文章的物質的段階は踏むにせよ、ありえないものがごく自然に存在できており、到達までの時間がゼロに近く思えます。だから主人公と同じように歩いている(あるいは文を目で追っている)僕は容易についていけず、酔ってしまうのです。酔っているうちに作品が終わり、喪失感にかられ内容を追い求めるのですが、まるで今まさに回想している思い出のように、もはやそこにはなにもありません。そして書き得た追憶も真実かどうか定かではない。
タイムリーに読んでいる小説の影響をモロに受けた稿となりました。語り手の祖母の死で泣いてしまいましたよ。映画の宣伝みたいな(ああいう人たちって本当に泣いたのでしょうかね。僕も、ですが)締め方ですみませんが今回はこれにて失礼いたします。皆様も読書暦回想、なさってみてはいかがでしょうか。おやすみなさい。
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