松下電工汐留ミュージアムで「アール・ブリュット -交差する魂-」と名づけられた展覧会が催されています。「アール・ブリュット」とは、いわゆるアウトサイダー(正規の美術教育を受けていない人間)によるアートで、それが欧州と日本の両方から集められているので「交差する魂」なのだそうです。
多いのは絵画なのですが、なにしろ体系化された集積ではないので日記や装飾写本、執拗に漢字で埋められたの紙や庭園(2ヘクタールの土地をパキスタンから持ってはこれないため展示されているのはいくつかのオブジェと場の映像ですが)なんてのもあり、非常に面白かったです。
いわゆるアウトサイダーが何なのかは、わかりません。上に説明らしきものを書きましたが、厳密な意味では正しくないでしょう。(展覧会で普通に使われていたので使いますが)知的障害者や精神障害者に作者が多いのも単なる結果ですし、カタログ(『アウトサイダー・アートの世界-東と西のアール・ブリュット-』はたよしこ編著,2008,紀伊国屋書店)に載っている物言いにも同調できない部分があります。カテゴライズしようとすると常に失敗するのでありましょう。「シュールリアリズム」のように。
どうも受容者のことが作者の頭にないような作品でも、例えば純粋に目を奪われる作品や思考に納得の行く作品など、きちんと親和力を持っている素晴らしいものがありまして、自分の言葉を使えないのが歯がゆいのですが、前出のカタログからピンときた言葉を紹介しますと、
「消化不良の人の芸術や膝に疾患のある人の芸術というものがないように、狂人の芸術というものもない。」
「作者たちは自分の殻に閉じこもって作品を作っているにもかかわらず、空想の産物を具現化するために自己を乗り越え、昇華させている。」
まだないけれども、あるべきものの存在へ向けてのたゆまない燃焼、これはおよそ芸術における根源的な要素であり、また、芸術にだけ一切の自由を許される行為ではないでしょうか。それでは。
(僕の中にはカテゴライズが必要だという意識がまだあります。さもなければ創作が代用行為にすぎないことになるかもしれない疑念が残っているからです。芸術とは何か? もしくは、どこまでが芸術か? は、絶えず発しなければならない問いでありましょう。殺人の意義と是非は絶対に別に論じなければならない。絶対に……本当に?)
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