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雑誌やサイトにデータベース化するほどラーメンを食べている人ってのは、そもそもラーメン自体が大好きなわけで、好きなものを食べているのだから余程のことがない限り「うまい」と書く。そしてまずい店は載せなければいいのですね。すると読む側の僕は身勝手にも「じゃあ載せてもらえる店だけがうまいわけ? 人の味覚はみんな違うのに」とか思ってしまって参考には結局ならない。それならば最初から本やサイトに頼らなければよいにもかかわらず。
要するにゴチャゴチャ言わず清水の舞台からなんたらの心地で食べに行きゃ済む話なのですけれども、ここで書きたいのは自らの読書体験についてのことでありまして、僕は読んだ本をデータベース化はしていないものの文章が好きで、ある程度きちんとしていれば読んでいるだけで幸せになってしまう、これはどうなんだろうなあ、と思うのですね。
どうなんだろうなあ。
読むこと自体の喜びや文章の出来、想像力を刺激される快感、ストーリーの面白さ、などなどなど、読書中に受容者を楽しませてくれる要素はたくさんあるのに、結果としてこれらが影響を及ぼしあい、作品全体の印象に統一されていくわけで、しかし、その要素の分け方は本当に僕が意識しているような分割のされ方、あるいは結びつき方をしているのかどうか、たえず検証していく必要を感じるわけなのです。
ある本を読んで「美しい文章だった」と思うときに、本当に文章の美しさからこの台詞が発されているのかどうか? または次のように言った方がわかりやすいのかもしれません。5000円の本を買った場合と借りた場合で作品の印象は違ってくるとして、本当にこれは純粋な読書と言えるのだろうか? っていうか純粋な読書ってなんなのだろうなあ。
なんなのだろうなあ。よく考えてみます。それでは。