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自分の内面を「形」にする ---投稿雑誌『Inside Out』ブログ since 2007/11/15
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プロフィール
HN:
川端康史
年齢:
39
性別:
男性
誕生日:
1984/06/29
自己紹介:
『Inside Out』代表の川端です。
自分の内面を「形」にする。
こういった理念を持った雑誌である以上、私にも表現する義務があると思っています。
ここはその一つの「形」です。かといって、私だけがここに書き込むわけではありません。スタッフはもちろん作者の方も書き込める、一つの「場」になればと思っています。
初めての方も、気軽にコメントなど頂ければと思います。

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 こんにちは、吉澤直晃です。
 
 いつの間にやら七月に入り、テストやレポートの期限が迫っておりまして、歳を重ねても夏の暑さに慣れないように最近の慌しさは昨年の今頃に勝るとも劣りませんけれども、「社会に出たら毎日が慌しい」という想念はうっちゃっておきたい駄目学生でございまして、どこで句点を打てばよいのかも判然としません。

 要するにボケているのですが、このボケは忙しければ著しく、そうでなくともそれなりに顕れ、ミスをよく呼び込んでしまいます。たとえば執筆時、意図せずに誤字脱字や文法的におかしい書き方をしてしまいます。もちろん点検は真剣に行うのですが、どうしても見過ごしてしまう間違いがありまして、気付けば後の祭り、てなことが少なくありません。

 編集の方が校正してくれるといってもやはり間違った文章を誰であれ他者に読まれるのは恥ずかしいものです。そしてこう恥じていながら悪癖が治らないのも問題で、結局のところ真剣に点検を行っていないのかもしれませんから二重に恥じ入ります。当ブログに書かれた僕の文章も結構ミスが多く、定期的に見直しては修正させて頂いております。

 前置きが長くなりましたが、そこで考えたらしいことを今回は述べたいのです。

 パソコンで打ち込んだ文章を訂正した場合、即座にミスした痕跡は消え去り、時を経れば当人まで忘れてしまい、下手をすると間違っていたという事実さえ曖昧になってしまいます。肉筆で書いた原稿を赤ペンか何かで校正した場合には用紙自体が失われない限りそんなことは有り得ません。その稿を読めば読んだだけ修正点をはっきりと把握できるし、手間がかかる分ミスの悔しさも残りますし、何より、たえず当時と現在が分割されているのできちんと反省が残ります。しかしタイピングされた文章においては特別なやり方をしない限り「当時と現在の区別がつかないもの」が常に肯定された状態で佇んでいるだけです。「当時と現在の区別がつかないもの」、それは記憶と似ています。

 想起とは過去にあった事実そのままの再現ではなく、おぼろげなイメージを浮かべては「これが真実らしい」と自分は推断しているわけで、この「真実らしい」という判決がなければ過去は過去とは認められず、推断は現在の「思い出している自分」が下しているのですから、思い出された記憶は過去と現在の混在と言わざるを得ません。更に「こうすればよかった」「ああしたのは正解だった」などの価値判断は「思い出している自分」に基づいて行っており、そこから出てくる「こうしたらどうなったかな」「あの表情はどんな感情だったのか」とのシミュレート・解釈に至っては事実から相当の隔たりがあります。

 「思い出している自分」を当時に投影して事実を取捨選択し、想像の翼を広げて自由に飛び回る、これが記憶です。そしてその改竄の事実自体の記憶は残りません。また改竄防止策として存在すると思われる外部記録装置は下手をすれば改竄を促進しかねません。なぜならこれらのヴィジョンだけが執拗に強調されて脳内へ上書きされるために、元の記憶が余計に歪められていく可能性があるからです(かつて恋した人は本当に写真の中の顔をしていましたか?)。

 自伝を書くとどうなるか? 当時のそれも自分や周囲だけでなく国、世界の情勢まで徹底的に調べつくしたとしても、完全な過去は帰ってこないのでしょう。それどころか相当にいびつな形をした、どこまでもカッコつきの「過去」になるのでしょう。小林秀雄の辞を引くまでもなく、過去は変えることができないし二度と来ません(だから美しいとは今の僕には言えませんが)。それは明らかです。すべての文章は体裁としては記録(行為だろうが思考だろうが)に属すと言えます。痕跡と呼んでもいいかもしれません。しかしそれは、幾分か嘘を含んでいるのでありまして、いや、嘘であるとわかっていていながら現在と過去の区別がわかるものこそが記録と呼べるのかもしれません。

 こういったことを、パソコンで文章を書いて訂正するという行為は消し去ります。今現在書いていることのどこかが間違いであるかもしれないことも意識に上りにくいですし(気付いたときに直せばいいのですから)、また、間違っていて直した場合には数日すれば忘れてしまう。そして最後に残るのは、あたかも最初からそのように存在していたかのような言葉の羅列だけなのです。タイプされた文章が駄目だと否定するには速断すぎます。けれども以上のような「記録の記憶化」が作品の生成の仕方を根幹から変容させる一因であることは間違いないのではないでしょうか。

 ひどく不確かな言葉ですみません。何度か点検しましたが、機会あるごとに再度点検したいです。精進します。それでは、お読みくださりありがとうございました。

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