前回の川端さんのブログで「断言するということは上からものを見ている証拠」という記述がありますが、ちょっと疑問があるのですね。確かに川端さんが言うとおり「ある意味で物凄く」的を射ているのかもしれませんが、そんな風に「証拠」だと端的に断言してしまっていいのかなあ、と。
上の哲学会大会においても、発表をいわば叩き台にして質問者と発表者の間で議論が展開されるのですけれども、そこでまた発表の内容とは違う新たな見解も生まれてきたりもします。あるいは痛いところを突っ込まれて不備を認める方もいるわけです。それでも発表の際には自分の主張を明確に断言調で述べられておりました。
なるほど自分が勉強し、考察し、調査し、発表する内容は憶測・妄想であるのかもしれません。しかし、だからといって「断言」したら上からものを見ている証拠なのでしょうか。発表する際に「~~かもしれない」「~~である可能性もある」「あくまで私の見解に過ぎませんが」なんて言い方をしていたら果たしてそれが、ものまたは相手に対等な、真摯な態度だと考えられるのでしょうか。
僕自身に立ち返ってみても同じことが言えます。去年の今頃でしょうか、文章を書くことに恐怖感を抱いていた時期がありました。それは以下の観念が理由で、つまり「いくら精進をしたところで自分の文章がよいなんて確信は持ち得ないのに、それを作品として提出するには非常な勇気を要する」というものです。しかし恐怖を踏み越えないでは何も始まりません。いいところも悪いところも見えてこないわけです。何かを本気で行うときは、自己が吟味され否定され棄却されるかもしれないリスクを背負わなければならず、それが、自分の意見が一意見であると踏まえた上であえて断定調で語る(自分の作品が素晴らしくないかもしれなくても発表する)機会を作り出しているのでしょう。
僕は、「断言するということは上からものを見ている証拠」という言葉がいついかなる時も断言できるわけではないと考えましたが、もちろん逆も然りであると思います。しかし、あるものごとを真剣に話し合う場において曖昧な言い方で通すということは「自己が吟味され否定され棄却されるかもしれないリスクを背負」うのを拒否しているように見える場合があり、僕にとってはそういう態度の人間の方がいわゆる「上から目線」であると感じられる、ということは主張しておきたいのです。
繰り返しますが、自分がものを断言する立場にないことは皆わかっているのです。それでも断言して語らねばならない状況が存在しないわけではないのです。対等である状態を構築しようったってコンテクストは無視できません。一つの見解にしたがって全てを処理するのは危険だと、常々感じている次第でございまして、今日の学会の復習を頑張りたいと思います。それでは。
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